遺産分割の方法による節税対策(相続開始後の対策)

1階には台所と居間

こうした状況を前提とした市民共生の取り組みができないものか、新たな広域連合の考え方を模索提案してみたい。二00六年には人口減少社会が始まり、九年ほど遅れて世帯数も減少し始めるが住宅の供給量は変化しないでそのまま増え続けるとどうなるのか。日本全体の住宅供給量の推移がこのまま続くと想定した場合、世帯数の増加が止まってからの空き家の数は急速に増加する。仮定ではあるが日本の住宅産業の生産スピドが落ちず世帯数が延びなければ空き家の数は約一五年間で倍増する。
当然、市場原理が現状の住宅バブルの勢いを思うと、働き、供給は抑制され需給バランスは保たれるが、今後の住宅需給環境が劇的に変化しなければ、柔軟にバランスを取ることができないことはまもなくある種の住宅バブル崩壊のような状況が来るように従って、容易に読みとれる。思えるのだ。

世帯数が増えなければ新規供給も必要なくなるのだが、日本の住宅産業の勢いは止まらないとすれば、その行き先はどうなるのか。
人口減少のない都心部では老朽家屋は整理され、再開発や密集住宅地の整序が進むと思われ、スクラップアンドビルトが続くだろう。人気がある一方、郊外の住宅地では新規分譲住宅に新規世帯が集中し、賃貸住宅市場が打撃を受け、未曾有の空き家を発生させる可能性が高い。
そしてさらに過疎地域や衰退する都市には空き家が急増してゴーストタウン化することも現実問題になるだろう。また住宅が飽和状態になると別荘のニーズが俄然出てくる。二地域居住などと国では提案しているが、豊かさの代名詞としての別荘族が増えてくると思われる。資金的にも時間的にも余裕のある世帯が顕在化すると、こうした世帯の別荘が生まれ始める。
国内だけではなく海外も含めてだが、西表島や竹富島に移住している人達も、こうしたニーズから生まれた現象かもしれない。

今後の都市の盛衰は統計からも明らかである。
国勢調査で都市規模別の人口推移を見ると人口一。0万人以上の大都市は今後も人口規模を拡大しそうだし人口一0万以上の都市も何とか維持できそうな気配である。

しかし人口が五万を切るとその推移は保証できず、将来的には人口規模を縮小せざるを得ない町も現れるだろう。盛んに行われている平成の大合併も、こうした小規模市町村を吸収して実態として消滅させる原因にもなり、統計の中からは消滅すこの場合、小都市はどうなるのか。どの様に対処すべきなのか。郊外に位置するニュ都市経営の舵取りは難しい。タウンも小都市の中に入るとすれば、ニュータウン衰退のシナリオまず人口が減少し始め、やがて世帯数も減り始めると、ニュータウンの衰退は、空き家の増加という形で顕在化する。
住まいの需要が供給を下回るようになると、次第に地価も建物の中古価格も下落する。売り手は早く売り抜けようとするが、買い手は少なくなり、たとえ買い手がいる場合も将来の値下がりを見定めつつ底値を待ち、希望に沿わなければそれがさらに価格を引き下げる要因になる。応札しない状況になる。

いわゆるデフレスパイラルの小地域版であるバブル経済が崩壊したときにも同様な状況に陥ったが、急落した地価で不良債権を抱えしかしこれからのデフレスパイラルは全国的てしまった日本経済は長期の不況に陥ったな人口減少に始まり、じわりじわりと世帯数の減少も始まって来るという、いわば真綿で首を絞められるようなゆっくりした下落なので、気づかずに過ぎていく可能性もあり、いつの間にか奈落に落ちているというように対応にも苦慮する状況である

これまで過疎地域で起こっていたこの現象は将来に渡って日本のどこにでも発生する。

武蔵野の森総合スポーツプラザの駐車場さらに顕著に至る所で発生することになる。現象が様相を変えて、とりわけ地方都市の郊交通の不便地区はその対象になりやすい。なかでも一般に外部で発生する可能性は高く、都市の拡大に併せて人工的に、しかも山を切り開いたりニュータウンと呼ばれる地区は、都市拡大の勢いに無理をして開発した宅地だから、その利用価値が薄れ谷を埋めたりと、デフレスパイラルが発生する可能性が高い。
ると一挙に衰退の道へと進み、今のところ、こうしたデフレスパイラルに陥ったニュータウンを復活させるための救済少子化が進めばファミリー世帯用の住宅は余ってきて、子育ての為にわざわ方法はない。職場近くの住居が手にはいる可能性が高くなる。
また、遠距離通勤をすることなく、高齢化すれば小規模住宅のニーズも高くなり、老朽化していても家賃の安い賃貸住宅へのすでに当初の目的であった住宅ニーズが必然的に高くなると言うお粗末な現象も現れる。
余った住宅をどのように活用していくかが課題になる不足への対応は終了しているので、七00万人を擁する団塊世代にとっても、子育てと通勤の為の住宅利用は終了し、子供は自立し、世帯主は退職して通勤の義務もなくなる。

そうなればニュタウンに留ほる必然性もなく。後半の人生を南の島でリゾート地域に別宅を求め過ごすために住宅を売り、て年金生活を楽しむという選択をする人も現れる。第二の人生を営む場所が確定すればニュータウンの家や土地を売却して新しい人生に活かしたいと考えるのは当然であるといっても、その家を売りに出しても子育て世帯はさらに地価が下落し続ける。
なか買わないとすると、なか処分できない場合はそのまま維持することになる必要の無い場合は値を下げてでも売却することにが、こうして売買が成立するのだが、さらに地価がなる。下がり空き家が頻発するようになると、地区全体の資産価値の下落を誘発し売値は急速に減衰して行く。
海外の例のように悪くすればゼロ、さらには持参金付きで売却するという羽目にもなりかねない状況がこれからは起こる土地や建物には固定資産税が掛かり維持管理費が必空き家の維持管理はさらに費用が必要にな要である。り地価もゼロに近くなると、その費用を負担するのも有料で処分するゴミと同様な扱大変だ。
究極の先は、いになる可能性だってある。たとえ農地に再利用した一端宅地になった土地の課税基準は宅地のままであり、使わなくなった土地はとしても、建物は管理できなければ廃屋になり負担になる。農地だって耕さなければ土地は疲弊し、ニュータウンの未来の姿が此処にある。宅地は荒れ地になっていく。

地方都市の郊外に展開したニュータウンの多くはこうしたシナリオに行き着く可能性を秘めており、この呪縛に陥らないように地域で知恵を絞って難局に立ち向かうことになる。
家で死ぬ

遺言が見つからない

印鑑登録証明書
その時、ホットスポットになれるのかコールドスポットとして奈落の底に落ちるのかは、その地域に居住する住民の手腕にかかっている。国や行政の支援には限界があり、実質的に地域を変えるのは其処に責任を持って居住する住民に他ならないのだから……。今後の社会は地域間戦争の時代にはいる。魅力あるまちは生き残り、魅力のないまちは滅びる。魅力のないまちから魅力のあるまちへの人口移動が始まり、魅力あるまちは一層魅力に磨きをかける。それらは全て居住者のまちづくりへの取り組み次第で決まる。一か八かの挑戦でもある。
行政がテコ入れをして何とかなる時代ではない。すでに時代は居住者が運命を握っている。滅びるまちもあり、必ずしも努力してもだめな場合もある。それが地域間競争と言うものだ。あなたのまちが生き残れるかどうかは、やはりあなたに掛かっている。あなたの参加で、まちづくりは始まる。共に明日のまちづくりまち育てに真共にまちを育むことができるのだ。

剣に取り組むことで人の心を変え、|IO○七年問題「というと、暗い印象を持つものだが、問題」地方都市やニュータウンにとっては明るいテーマでもある。会社に時間を奪われていた人が地域に戻ることであり、高度成長期に都心に向かった世代がUJIターンをすることもあり、うまく回帰現象が進めば地域は潤う可能性がある。
高齢者を呼び込むことになる「将来の福祉に係わる費用が一面ではなどと否定的な見方も無いわけではないが、増大する」すでに地域へ戻る団塊世代の争奪戦が始まっている。

それも広域的に、ある意味ではグローバルに物事は動き始めている。

日本の地域間競争が始まっていることを端的に物語るのが二00七年に始まった団塊世代の争奪戦である「人口減少に悩む自治体は田舎暮らし体験ツアーや就業支援策を掲げ、移住による活性化をめざす。都市部でも技能を持つ退職者の再就職あっ緊縮型予算が目せんに力を入れる。

立つ中で、各自治体は約七00万人にのぼる団塊世代退職者争奪に知恵を絞る。として、朝日新聞紙上で都道府県の取り組みを紹介している。
まさに地域間競争の始まりである団塊世代の高齢化が自治体の財政を疲弊させることを恐れる行政もあるが、有り余る資力や経験や技術力を活かして地域を活性化させようと転入を招来する自治体も現れている。
一世帯当たり約二千万円の金融資産と居住する不動産を持つ世代である今後、定年退職を迎えて1ターンやUターンを期待する地方や海外諸国が、ゆとりのある世帯を中心に呼びニュータウンから寄せをする中で、有力な資産を移動させないためにも、また、ニュータウンに有能な人材と資力を取り戻すためにも、その地域力が試されるところでもある。

子供が巣立ち通勤も必要がなく一方、移動を意識する団塊世代側の考え方は多様で、なったとすれば、子育てと通勤の折り合いをつけて選んだニュータウンに未練はなく、新天地を求めて移住することは容易である。とりわけニュータウンは子育てと通勤に都合の良い環境が整えられている都市であり、居住者もその目的で移住して来る居住移民でもぁ転居に対する抵抗はない。

不動産処分についても、るので、多摩ニュータウンなどの場合は比較的中古物件もファミリー世帯には需要があるので、そこそこの価格で不動産を手放して夢のリゾート暮らしを始める世帯も登場する。そもそも血縁のない土地であり、定住他に住み良いところがあれば移住は簡単に行われるだろう。意識は希薄なはず。
子育てと通勤という拘束条件が無くなった糸の切れた凧は気の向くままに新たな人生を求めて歩き始めるに違いない。すでに、団塊世代よりも先に退職した昭和10年代世代には都心回帰や田舎暮らしを始める退職者が増えている。
中でも沖縄については転入に暖かく物価の安い住まい方を選ぶ移住が増えている。中にはよる人口増加が顕著であり、

フィリピンやマレーシアなどの東南アジアを始め、カナダ、ヨーロッパ、アメリカ、オストリアやニュージーランドなど、世界の国々への海外移住組も顕著に増加している。
今後、団塊世代の退職とともに顕在化するであろう新たな住処の選択は、それが社会的な制約に左右されない自由な選択になるだけに、その動きが今後の地域間競争のポイントになる。
ゆたかがおかとりわけ移住し易い集合住宅団地から住み替える団塊世代は急増すると思われるエレベーターのない環境の中では住み続けられないことは判っており、少なくともバリアフリー環境を求めて移住するという選択は現実的な転居の動機として多くの団塊世代が意識している問題である。そして漸く就労や子育てから開放されて、新たなライフスタイルに変えるという選択と、高齢化というライフステージに対応した住まいを獲得する為に積極的に住み替えを始めるに違いない。多摩ニュータウンの居住者に対するアンケートの多くが、今後とも住み続けたいという意識の高いことを結論づけているが、詳細を見ると非常に疑わしいものがある。
多摩市

の世論調査(一三)ずっと住み続けたい当分は住み続けたいではの八一·二と当分は住み続けたい当分定住派としているが、パーセントをとするの意味は深それは市外に転居したい理由として、通勤通学、生活環境、住宅事情、長である。

仕事の都合、近隣関係を理由として回答項目を作っているが、最も多かった選択肢はそのの三六·六パーセントであり、そこに転居の本当の理由が隠されているように思う。他当分は住み続けるが、子育てが終わり定年退職後には住み続ける理由がなくなるという状況の中で、今後の団塊世代の退職者達が多摩ニュータウンに住み続けるかどうかは、まさに多摩ニュータウンの魅力を団塊世代がどのように受け止めているかを現すこととなる通勤·通学が不便だから市外に転居したい理由の二番目は三五,七パーセントとなっており、続いて生活環境が良くないから一六·一パーセントの順になっている。
ニュータウン居住の団塊世代にとって、子育てと通勤が無くなった定年後は、こうした居にわかに団塊世代へのラブコールが始まっ住継続の理由は無くなっている。地方都市で、た中で、定年を迎える団塊世代がどのような行動を示すかは定かではないが、ゆとりのあ

る世帯のみが移住を考えニュータウンから離脱し、余裕のない世帯のみが残っていくという構図が生まれることも想像に難くなぃ。

こうした状況に対してニュータウンが今後も活力のある都市として存続するためには、豊かな世帯を逃さない魅力あるニュータウンに改善することが必要である。ニュータウンには退職者達が求める田舎暮らしに共通した要素も持っている。こうした魅力を積極的に活かして、地域に発信していくことが必要である。

行政の役割はアンケート結果を都合良くとらえて八割が定住派だとして解釈するのではなく、もしかすると四割が移住するかもしれないという危機感を持って、今後も住み続ける世帯を増やす努力をすることが大移住するか否かの選択はあくまでも自由な選択であり、団塊世代がニュータウ切である。

住まいの循環

ああ天国!天国!

ンとの関わりを継続させるかどうかは、地域の魅力づくりに掛かっているのだから。二地域居住国土交通省国土計画局総合計画課が「『二地域居住』の意義とそ一100五年三月二九日、の戦略的支援策の構想」について発表した。
都市住国土交通省によると二地域居住とは、民が、本人や家族のニーズ等に応じて、多様なライフスタイルを実現するための手段の一つとして、農山漁村等の同一地域において、三ヶ月程度、中長期一定期的·反復的に滞在すること等により、当該地域社会と一定の関係を持ちつつ、都市の住居に加えた生活拠点を持つこと』としており、郊外に住宅を確保して家族を住まわせ、都心に通勤地獄解『マルチハビテーション』田舎消のワンルームを確保するという嘗ての構想とは異なりを生活の中に捉えていることに違いがある暮らし

将来行いたいの内訳をみると、全回答者に占める割合で、まもなく始める予定実行予定分が0.七パーセント、制約はあるが行いたいが三·八パーセント、強志向分制約が解決されれば行いたいが三六·一パーセント』となっており、弱志向分実に半数が『二地域居住』に興味を抱いているということになる。

当分は住み続けたいこの結果と多摩市での居住継続のアンケート結果のという解答と組み合わせて考えると、かなりの数の『二地域居住』志向者が現れてくるように思われる。実際、身近な友人達がすでに『二地域居住』を始めていて、かく言う私も10年ほど前に山梨に土地を確保し小屋を建て始めており、世代に共通するニーズであると思われるしかし、現実には移動手段や日常の忙しさなどで利用する機会が少ないのも事実で、必ずしも『二地域居住』が的を射た方策であるとは思えない面もある。
今後、こうした傾向がニュータウンから多くの転出者を生むかどうかは未知数であるが国が言うように『二地域居住』が理想だとすれば、『都心』多摩ニュータウンをとして理解し『地方圏その他の市町村』を求める住み分けが生まれると考えることもできる。
またニュータウンそのものが都心と田舎の両方を持っているという考え方もでき、その場合は

敢えて11地域での無理な生活ではなく、田舎暮らしを味わえる都会としての暮らしが実現できるのではないかとも思う。というのも『二地域居住』は言い換えれば別荘保有と同様な状況であり、別荘管理の問題と同様な課題がある。

一般的に別荘を持ち、維持管理するよりも、既存の宿泊施設を利用した多様な選択のあるくらしの方が経済的であるということもあり、必ずしも三地域居住』が『二住宅居住』にはならないと言う背景もありそうだ。
建築だけでなく不動産売買も一括で引き受けてもらう加齢に伴う移動手段や11カ所の住宅の管理を考えると維持管理は容易ではなく、その都度、最適な宿を求めて気軽に旅行を楽しむ方がベストのようにも思えてくる。従って1カ所で地域の要素を持つニュータウン、『一粒で二度美味しい』「理想の居住要素を持つニュータウンは、本来のなのかもしれないとも思えてくる。地」多摩ニュータウンでは里山活動が盛んである。炭焼きや稲作が楽しめる場所やグループ活動がある。自宅から徒歩で山歩きできるコースが整備されているし、筍堀や山菜を摘むことも日常的にできる環境がある。
自家菜園を確保することも可能であり、悠々自適の生人々の本音は山奥で過ごしたいとは考えてなく、活を楽しむこともできる。実の所、そこそこ都市の利便性を享受しつつ田舎暮らしを楽しめれば良いと考えていると思う。ニュタウンはこうしたニーズに応える要素を潜在的に含んでいる。
とりわけ地方のニュータウンで転出が続き、空き家や空き地が散在する住宅地では、空き家や空き地を借用して野菜を栽培したり、多様な趣味の場として空き家を活用するなど使われなくなった資産を活用することで街を活性化することも可能である。

こうした余剰の土地や建物を有効に活用することができれば、地価の安いことを逆手に取った地域再生のメニューが出来上がる。定年を迎え、終の棲家を探し始める大都市の団塊世代の呼び寄せも可能だろうし、農地に隣接したニュータウンや里山を持つニュータウンでは晴耕雨読の人生がおくれるし、埋め立て地や沿岸の砂丘を開発したニュータウンであれば海浜のレクレーションを共通のキーワードとして人を呼ぶこともできる過疎化しつつあるニュータウンでも、その地にあった特徴のある個性を強調したそこだけのニュータウンとしてオリジナリティを高めることが新たな再生の方向を見ぃだすことになる。
『ナンバーワン』『オンリーワン』を見いだすまちづくりやはりではなくが必要で、過去を振り返るのではなく未来を呼び込む地域作りへの方向転換が求められている。こうした地域の意識改革により、そこに新たな居住スタイルが生まれ、新たな魅力と居住する楽しみや豊かさが発見でき、その街に住み続けたい、住み移りたいとする居住ニーズが育成されると考えている。

鉄道の延伸が間に合わず、道路整備も遅れ、最寄り駅まで四0分かけての通勤通学は苦痛だったに違いにない。ましてバスが終わってからは陸の孤島で、自主的にミニバスの運行も行ったと言うから、居住者の苦労は並大抵ではなかったろう。降雪時はなおさらで、定刻通りバスが来ない時には徒歩で山越えをしたという話は多くの方から耳にする。ニュータウン開発は計画側の苦労だけではなく生活者の下支えがあってこそ成り立つものである。

相当の地代

これらの帳簿価額が相続

預貯金等の名義変更贈与

住宅を造っても住む人がいなければ街は成立しないし、交通事情などが整っていない地区に転入する努力たるや想像を絶するものがある。とりわけ、多摩ニュータウンの最初の入居者は、開発側の経験も浅いので殆どマニュアルのないことの連続だったろう。いわば開拓者の精神で掛からなければ、到底多摩ニュータウンに住み続けることは出来なかったと思われるほど不便を強要した。だから、当初に入居した人々からの多摩ニュータウンへの思いには熱いものがある。時代はそれほど住宅不足が深刻だったという裏返しの事情があった。
当時の様子は多摩ニュータウンタイムズ社主、横倉舜111氏の報告に詳しいが一九七四年昭和四九年六月小田急多摩線が永山駅まで開通、同10月京王相模線が多摩センターまで開通するまでの間、入居した人々の苦労がどの様な試練の中で住み続けたのか、その状況が詳しく語られている。
横倉氏は多摩ニュータウンの土地取得に当初から係わり、多摩ニュータウン開発の生き字引として、われわれの多摩ニュータウン情報の原点でもある。
多摩ニュータウンタイムズが語るニュータウン初期の光景を参考までに抜粋する(一四)

-多摩ニュータウン妻子が待つマイホームに住民がピストン輸送永山地区に入居第一陣を迎えて一年が経った昭和四七年三月頃、諏訪、京王相模原線や小田急多摩線の鉄道工事は始まっていたものの住民の足の問題が解決したわけではなかった。

当時ニュータウンは、京王線聖蹟桜ヶ丘駅と小田急線鶴川駅との間を京王バス、神奈川中央バスの11社のバスで繋がれていた。朝夕のラッシュ時には途中無停車で急行してようやく間に合うというのが現状である。雪の日や雨の日に積み残された乗客の行列は気の毒であった。諏訪、永山地区には当時五千六百戸が入居しており、この三月には愛宕地区の入居も開始される。

ところが勤めから帰り桜ヶ丘に着くのが10時半過ぎると終バスはない。タクシもあるがバス料金の10倍以上を払うことになる。しかもタクシーに乗るためには長時間並んで待たなければならない。

桜ヶ丘駅のホームに電車が着くたびにホームからの階段を先を争い駆け降りてくるその足音と一人でも追い越して先に出ようとする気迫ある行動は異常ともいえる。そ新しいマイホームに住んで日が浅い、してタクシーを待つ列に加わるのである。妻や小さい子供が待つ家に一刻も早く帰りたいというのは人情である。折角桜ヶ丘駅に着いても、ここでまた三〇分、一時間待たなければならない、こんな日々が続くと、何とかならないものかと考えるようになる。だが、この新しい街はまだこれに応えられるようにはなっていない。
夜になると文字通り陸の孤島化するのが世界に誇る多摩ニュータウンの現状である京王新宿発の特急は最終が午後11時で、聖蹟桜ヶ丘駅着は同11時11五分だが同駅の最終バスには間に合わない。せっかく特急に乗ってもニュータウン行きの足はタクシー以外にはない。
夜10時半以後に聖蹟桜ヶ丘駅に下車して、折返し帰ってくる駅前のタクシーを待つ人たちで毎晩長蛇の列が続く多摩ニュータウンの入居募集案内などのうたい文句は新宿から二五分、職住近などであった。そこでこの交通問題を何とかしようと立ち上がったのが、「多摩交通問題実力突破委と称する自主運行だった。
バスのなくなった午後10時半以後終電まで、員会」京王桜ヶ丘駅とニュータウン間の約六キロを九人乗りのワゴン車で五八回のピストン輸送をする。少しでも帰宅の遅れを緩和しようと住民側が動き始めたのだった。車の自主運行車多摩交通問題実力突破委員会と書かれ横には白字で大きく小さくている陸運局は黙認していたのだろう。

信頼できる多摩ニュータウンタイムズより

最初の住宅供給多摩ニュータウン開発最初の一九七二年昭和四七年までの11箇年に投入された住宅宅四011戸、公団分譲住宅一二三0戸であった。いずれも三九平方メートルから五11平方メートルの小規模住宅で、エレベーターなしの五階建てが標準だった。
それでも2DK3DKの団地住まいはモダンで、二〇代後半から三0代前半の世帯を中心に不便を物ともせずに転入した。当時の公営住宅も公団公社賃貸住宅も分譲マンションも110代三0代のファミリー向けの住まいとして普及し始めていた。
今と比較すると結婚年齢も子育て期も五年以上早かったから、住宅ニーズも若くして始まった。ちなみに、公団の分譲価格四八平方メートル三九0万円、1平方メートル単価八·0万円は今では考えられない価格である

しかし、四八平方メートルは四人家族を主とする世帯には余りにも狭い。多くの世帯はまもなく始まるオイルショックをきっかけに住宅双六へと始動しはじめるのである。

折か日本の住宅はウサギ小屋量の供給ら国連人間居住会議からの発言もあって、から質の供給へと日本の住宅政策を大きく方向転換させる時期とも重なった。
だからそれ多摩ニュータウンに供給される住宅の面積も六五平方メートルに、以降、そして九五平方メートルへと急速に増え、同時に多摩ニュータウンのマンション価格は五年後の昭和五一年には二三·八万円/平米、一0年後には三五.二万円¥平米をつけた。その結果、一戸の総額も一五00万から三三00万と跳ね上がっていった。
当時のサラリーマンの収入もインフレで急速に上昇していたので、中古住宅を高く売ってさらに広い住宅を購入して行くという住宅双六が住宅取得の常套手段として受け止められていた。すでにお気づきの方もあろうかと思うが、多摩ニュータウン開発でも他の公的なニュ初期に投入する住宅は賃貸住宅を中心に整備する。
タウン開発でも、とりわけ公営住宅は多くなり、都営住宅多摩ニュータウンの場合も初期投入の住宅全体の三七パーセントが都営住宅になっている。

それに引き替え分譲マンションは一九パーセントという低水不便を承知で分譲マンションを買う世帯のニーズを少なく見て、準で、多少の不便は承知でも入居せざるを得なぃ入居者を対象とした公的賃貸住宅が供給の中心になった。その場合、希少価値の分譲マンションは高嶺の花で、当時の多摩ニュータウンでは、あ

こがれの持ち家だったに違いない。多くの賃貸世帯は、将来は中古住宅でも購入して持ち家世帯の仲間に入りたいと考えていたはずで、あわよくば、さらに住み替えで最後の到達当時、点は戸建て住宅の取得を夢見た時代である。マンションは終の棲家としては不十分と思われていて、住宅双六の上がりは戸建て住宅に決まっていた。

それを受け止めるように公社や公団は最寄り駅から少し離れた丘陵部に戸建て住宅団地を造成した。これで、公所得階層に応じた住宅政策のモデル配置が完成した。営住宅から戸建て持ち家まで、居住者もそれを当然として、右肩上がりの日本経済が本物であることを疑いもしなかったし、住宅双六はある種の錬金術として市民の意識に根付いていった。
それを証拠に多摩昭和四六年に供給された諏訪二丁目住宅の入居者の八割がニュータウン最初の分譲団地、転居している事実がある。
相続税の還付請求

定期預金の書き換えも贈与を受けた人が行う

親の土地の名義はとっくの昔に死んだ祖父のまま!
元々、住戸面積が四八平方メートルという狭さが原因で移転が誘発されたと思われるが、現状の居住実体を見ると単身世帯は11割以下で三人以上のファミリー世帯が五割以上と、必ずしも狭さが家族数を決定するものではないようだ。そこにその流れがバブルは狂乱物価で上昇した資産価値を生かした住宅双六が確実に存在した。景気後、一挙に崩壊すると誰が予測できたろう。従って、当時の住まいの価値観は、住み続けることが大切だという持続可能な社会を目指す現代の風潮とは価値観を一八〇度異にする状況だったに違いない。
その後の住戸面積が100平方メートルに近づいた昭和五六年頃の分譲団地、豊ヶ丘団地の入居者の住み替えは少ない。すでに建物の価格帯も上昇しており売却による利益は得られない状況にあった。その後のバブル景気にも広さという点では十分だったし、マンション管理も自主管理などでコミュニティもしっかりしていて、住宅双六は必要なかった。ただ、高齢化の波はひたひたと押し寄せており居住者は加齢している。

この団地の特徴は住宅規模は十分だが階段型住棟で、住み続けていくにはバリアフリーの対策が必要であり初期の団地とは違う、高齢化という現実的な問題が待っている。

求められる住まいの規模一九七一年、最初の分譲マンションが四八平方メートル、賃貸マンションが五一平方賃貸の方が111平方メートル広いという状況があった。
一般通念からするとメートルと、分譲の住戸規模が賃貸を上回るのが常識であるのだが、この時は逆転していた。
原因は当時の分譲マンションに対する住宅金融公庫融資の面積基準枠に限界があったことで、住戸面積を広くしたいとする公団賃貸住宅の方向と逆転現象を起こしていた。それほどマンションが持ち家住宅として一般的ではなく、抵当権を設定する不動産として金融機関には信用がなかったということに尽きる。

また住宅金融公庫のマンション融資そのものも一九七〇年、多摩ニュータウン第一次供給の前年度に実験的に始まったばかりで、マンション融資も手探りだったと言える。とりわけニュータウンとはいえ、開発途中の山間部の土地に落下傘で降りるかのような陸の孤島の住宅への融資だから、土地本位制の中で、マンションの資産価値の評価も難しかったに違いない。とはいえ、余程、住宅に困窮していなければ入居しないだろうと言う計画者側の思惑もあったのだろう。安価な小規模住宅が大量に供給され、すべてが売却された

その後、1年で狂乱物価のオイルショックがやってくる。
マンション価格も急上昇する一九七二年と一九七三年は第三次マンションブーと共に新規供給の住戸面積も拡大する。
ム、一九七七年から一九七九年は第四次マンションブームと呼ばれるが、オイルショック以降の多摩ニュータウンの位置づけは、一九七六年、他の例に漏れず公団住宅は「高.と評され、都心部のマンション供給が増え、遠·狭高くて遠くて狭い」その時期、都心回帰が始まっていた。
やがて多摩ニュータウンでも住宅面積は八〇平方メートルを上回り、とよがおかに分譲されたマンションは南面三室、当時、多摩市豊ヶ丘100平方メトルにもなる規模で供給され、ゆたかがおかと呼ばれるほど特別な面積の住宅が供給さそしてバブルれた。
さらに一九七九年以降は小規模分譲マンションの供給はなくなった。
信頼できる経済期には住戸面積平均が一四四平方メ-トレにもなる三世代同居型の団地も供給されファミリー型分譲マンションの最大面積に到達するバブル経済期の住宅供給戸建て住宅が住宅双六の上がりだと信じていた日本人には広いマンションは売れず、民間のマンションは何れも小規模だった。だから居住水準の向上を目指す国は、公団分譲などの公的マンション供給を通して広めのファミリー中心の住宅を供給してきた経緯がある。民間が都心部で比較的コンパクトなマンションや投資型のワンルームマンションを大量供給するのに対して、公的に整備する住宅はファミリーを中心にするために住戸面積を拡大していった歴史がある。だから多摩ニュータウンの分譲マンションにはコンパクトな住宅は初期の供給以外は存在しない。

一度、方向を定められれば、わき目もふらずに一心に目標の住戸を供給するのが我が国の習わし。最低でも七五平方メートルは確保すると国が宣言すれば、何が何でも最低限を守っていくので、結局、単身者は住めない団地群が生まれる。だから高齢の単身者は古い狭い住宅に住むしかないと言う選択になって、初期の住宅に集中することになった。日本の住宅政策はそれほど偏った住宅供給をしてきたことになる。

しかも殆どが中層住棟のエレベーターのない住宅だから、高齢化に対しては無子供が巣立って片方が死ぬ防備だ。人になる。と必然的に一中途半端な住戸面積では子供との同居も難しい。そんな問題が顕在化し始めたのもバブル景気の最中だった。高齢化が問われ始めたのもバブル景気と同じ時期になる。一九八六年昭和六一年、国の高齢者住宅事業としてシルバーハウジングが始住宅政策に高齢者への対策が取り上げられた最初だが、まった。
家族同その後の議論はか高齢者集合なのか議論が分かれた時代。その結果としてのマンションにも近居居隣居の可能性を作れと生まれたのが、三世代同居住宅の供給。平均住戸面積一四四平方玄関を二つ用意して内部で繋がる仕組みでエレベーターが用意されバリアフメートル、リーが謳われた。

そして多摩ニュータウンには新規団地の供給の中でまとまった単位で供給された一九八八年昭和六三年八月入居のサバービア多摩21は四九戸という小規模な団地であるが、一六四.九九平方メートルという大規模な住戸が供住戸面積は一一三.九一七八九0万、給された。
価格は五七七一平方メートル当たり四六.七万円という価格帯は当初の住宅価格としては高額であり、都心の親の住まいを整理して子供と同居するとやがてバブル景気のピーク時には多摩いう住み替え需要に焦点を当てた供給でもあった。ニュータウン内でも一平方メートル当たり六0万円が常識となり、やがて崩壊に進むことバブル景気だったことは、になる。はじけてから解るもの。
高額で購入した二世帯同居の住戸も今では一平方メートル当たり三〇万を割っており、八千万円近くで購入したものが五千万円を下回る価格になった。それでも、ピーク時に購入した住宅よりは損失は少ない広すぎる住戸は維持管理費も馬鹿にならず、ものの、月々の管理費と修繕積立金の合計は

高齢者世帯の住まいとしては負担が大き過ぎる。
四万円となり、すでに110年近く経過し居住者も住み続けることの重さを感じているはずである。た団地である。

アパートを建てた場合

コールドスポット

多摩ニュータウンに供給された住宅の規模は多様ではあるが、同一団地で同様な住宅が単身高齢者や新婚夫婦、集中して供給されているため、子育て世帯もいるというコミュニティミックスを実現できないでいる。その時々の住宅政策がモデル的に団地建設に適応されてきたことがコミュニティミックスの実現を妨げていると言ってもいい。こうした住宅ストックの中では、ライフステージに対応した望ましい住まいを求めるためには他の地区に住み替えていくしかなく、育ててきたコミュニティを失う結果となる。孤高の人は別にして、人間は共に暮らす仲間がいてこそ楽しくも有意義にも生きられるもの。特に老後の住まいは地域に密着するのが常。
できれば地域で終の棲家を見つけたいと考えるのは万人の共通する価値観であろう。そんな住まいが多摩ニュータウンにはない見方を変えると、家族の成長変化や経済力の違いによって住み替えをする日本の住宅制度に最も適応できているのが多摩ニュータウンであるのかもしれない。

ニュータウン内で区画整理地区の民間のワンルームから新住宅市街地開発地区新住地区の公共賃貸住宅そして新旧の分譲マンションや戸建て住宅などの全てが用意されていて選択できるという環境は大規模ニュータウンの特徴であろう。

経済力が不足すれば公営住宅があり、高齢化すれば高齢者向け優良賃貸住宅が用意されている。余裕のある世帯には高級な戸建て住宅団地も整備されていて、ステータスのある生活ができる。ある意味では至れり尽くせりのニュータウン、それが多摩ニュータウンであるのかもしれない。ただ、多様な住まいはあったとしても、人々は成長変化するもので、その度にヤドカリのように移住するのではかなわない。
住み替えるとしても同じコミュニティの中で住み替えることができれば近所づきあいも守れるが、所得や家族の成長や縮小などの変化によってコミュニティも一新させなければならないと言う住まい方は今後の高齢社会には似合わない。今後はコミュニティを離れずに住み続けられる住まいのあり方が求められている。その為の施策が望まれている。
多摩ニュータウンの住宅供給多摩ニュータウンの住宅供給は時代の流れに左右されながら大きく揺れてきた。
昭和四住宅不足の時代に街開きがあり、七年のオイルショックまでの大量の小規模住宅を供給し、住宅の質の時代続くでは急速に住戸面積の目標を拡大する国の施策に対する追随を団地単位に展開して、平均面積一四四平方メートルという偏った住宅団地を世に生み出してきた。

とりわけ公団を中心とした住宅開発は、国の住宅政策に従順に取り組んで極めて特異な市街地を生んできた。日本の住宅政策は階段状に昇っていく段階的施策といえる。五年ごとに住宅建設五箇年計画を策定して居住水準や環境水準を上向きに定め誘導する。それが公的住宅供給組織である都市公団や公社の建設基準になり、多摩ニュータウンの住宅供給の基本的基準ともなった。

これらの帳簿価額が相続時代の要請で、三年からの第八期住宅建設五箇年計画を最後にこの計画も平成一新たな住宅政策へと衣替えしたが、戦後の住宅政策の根幹を成す計画として、公営住宅公団公社の賃貸住宅、公的な分譲住宅、金融公庫融資住宅など旧建設省の関連する住宅に

全てに適応された基準であるは、誘導基準が優先する余り、従って、民間住宅の実態と、かけ離れた基準で整備するため低所得階層を救済する公営住宅が一般の民間賃貸住宅よりも高級な住宅になるケースも各つまり民間がついていけな所で現れ、ある種の逆差別的な捉え方もされることもあった。

いほど国の基準は高く位置づけられていて、結果的には現実から乖離した居住水準を求め言い換えると、ていたということにもなる。

日本の住宅環境を向上させるために高尚な目標を持っていたともいえるが、振り返って多摩ニュータウンを見ると、こうした高邁な理想を持った計画で造られた住宅が殆どを占めていることであり、とてもとても他では見られない優良な住宅が集積している区域であると言い換えることもできる建物のデザインや団多摩ニュータウンの住宅供給は面積も質も次第に向上していった。

地の配置計画など、環境デザインについても周到な計画理念や理想的な環境への提案が加えられ、都市計画、建築計画の世界では格好の実地研修場として歴史的にも先進事例としても見学の場として使われたり、放送業界からはテレビドラマやコマーシャルの舞台となり、クリエイティブな新都市としてデビューしていくことになる。とりわけバブル経済に突入する頃からはデザインも際だって良くなり、各種の景観賞に取り上げられるなど華々しいデビューを飾った。このように多摩ニュータウンの住宅は日本の中でも優良な住バブル期に建設した団地群で大規模の瑕疵が発生して、宅が揃っているのだが、前代未聞の建替にまで補償が進展した話題は新しい。
バブル経済期に入り、デザインも奇抜に個性的になって行くに従って住宅に掛けるコスそしてバブル経済のトも増加する。当然のように販売価格も賃貸価格も上昇していった。崩壊がやってきた。分譲目的として建設していた公団マンションも販売できず、やがて賃貸住宅として活用することが決まったし、市場価格暴落で売れ残っていた公社住宅もバブル崩壊以降10年を経て、元値の半分以下で処分した。
バブル経済崩壊は多摩ニュータウンから公的な分譲住宅供給を撤退させた。その後の分譲住宅供給は民間に移行した。
多摩ニュータウン開発を担っていた東京都も公団も用地を売却する手法として大規模な敷地にコンペを実施して販売を促進した。いずれも容積率を最大大規模な土地でのコンペ案は、限に使った計画で、住戸密度を限定しての計画案は、戸当たり面積が八〇平方メートル以Eの広めの住宅供給が続いた。

多摩ブルー賞

信頼できる

本件建物

そんな市街地に空き家が集約していることになる。市街地は同心円的に広がっているのだから10キロメートルで区切った場合、郊外に行くに従って空き家は拡散しており、いかに空き家の絶対数が一OS二〇キロメートルに集中しているかがわかる。そこは環状七号線から10キロメートルという圏内である。いわゆる密集住宅市街地の集中しているところで、都市再生の重点的なエリアでもある。都市の開発状況とも相関する。
空き家の動きは、都心回帰が進む中央区では平成一0年に空き家密度が八七一戸/平方キロメートルだったものが五年後の平成一五年には五二五戸/平方キロメートルに減少していて、空き家率も1111.九パーセントから10.0パセントに激減した。これは新規供給のみならず既存空き住戸が埋まったことによる変化であり、見事な都心回帰と言うことが出来よう。
空き家を減らし居住者を増やしたということにおいては確実に地域の活性化を招いたと言える。一方、台東区の場合を見てみよう。同様に空き家密度が一0七0戸/平方キロメートルから一五七四戸¥平方キロメートルになり、空き家率が1111.八パーセントから一六·八パーセントに動いた。
住宅に居住する世帯数も一万五千世帯ほど増加しており、マンションラッシュに転入世帯が負いつかない状態。供給過剰の状況になっていることがわかる。もう一つ特徴的な所に豊島区がある。

空き家密度は多少減少したものの一七二九戸/平方キロメートルが一五四七戸¥平方キロメートルと高水準を保ち、空き家率も一四·八パーセントが一二·九パーセントと少し減少するに止まっている。世帯数も六千世帯ほど増えているので、構造的に空き家が多いという特徴を持っていることになる

アパートなどの空き家が多い。もともと賃貸住宅の多い空き家は殆ど賃貸用の住宅で、今後、地区でもあるが、その数は増えたり減ったりと地区によって特徴が出る。
こうした世界の都市の趨勢を見ればその現象が何をもたらすか空き家の問題がどのようになるか、次第に空き家が増えることで治安が悪化し居悪くすれば地域の崩壊に繋がる。
は明白で、次第に悪循環住者が次第に減ってくることが、さらに空き家を生みスラム化を助長する。銃社会のアメリカほど危険ではが起こり最後には住めない町になる可能性を持っている。ないが、犯罪は多発するだろうし賃貸経営も続かなくなるだろう。ここには二つのシもう一つの危険な市街地が五0キロメートル以遠に広がる市街地だ。平たつは旧来からの駅を中心とした市街地を形成していた商業集積地、ナリオがある。
1居住者が自動車利用を前提とした生活になったことで駅前く言えば地方の商店街である。幹線道路沿いに展開する量販店に客を奪われている状況がある。幸,の商店街を利用しないで、従業員のアパートもあった市街地は次第かつては商店がある所に併設する住宅があった。

建築だけでなく不動産売買も一括で引き受けてもらう殆どが無駄各地で商業活性化のてこ入れをしているが、にシャッター通りとなっている。衰退に向かう流れは仕方ない事であるように思う。骨である。

二つめのシナリオは、郊外に展開したニュータウンである。都心部への通勤を前提としそしてバブル期に郊外に広がりすぎた。たニュータウンの拡大はオイルショック前に、今、そのニュータウンが存亡の時を迎えている。
都心回帰は郊外の地価の下落を生み、都市に人口が集中するとともに地価は下落していくことを考えると、郊外に居を求めて移住した人の多くは再び都心には戻れない状況に陥る。
少なくとも多くのローンを抱えたままの転資産価値も低迷している中での移住は難しい。しかし、売は困難だし、一部の裕福な世帯のみが都心回帰を図る。グラフは郊外の空き家率の増加を示していて、これも年々増加している見渡せば空き家だらけのニュータウンで誰が住むのだろう。
多摩ニュータウンがどうなるかは軽々にいえないが、多摩ニュータウンの中でも選別が生まれることは確かで、人のいなくなる所と人の集まるところがはっきりと現れるはず。それが10年後なのか三0年後なのか予測するのは難しいが、問題の発生を野放しにすれば、衰退は確実にやってくる。
マンションブームの余波を受けて比較的新しい都市機構の賃貸住宅や公社の特定優現在、良賃貸住宅に相当空き家が発生しているが、こうした空き家状態が続くと安全安心な環境は維持できず、居住の継続すらままならない状況になる可能性もある。
三大規模開発の不幸土地利用計画がまちを滅ぼす首都圏二○y三0キロメートルの多摩ニュータウンは現段階で大雑把に見ると、家賃さえ市場に対応させていれば空き家の発生で恐れることは無いと見える。しかし多摩ニュタウンの土地利用は住区を単位とした大規模なブロックに区分されているので、そのブロック毎に土地利用が制限され市街地の栄枯盛衰が決まってしまうことがある。

つまり大規模な賃貸住宅エリアや分譲マンションエリア、そして戸建て住宅などの土地利用の違いがブロック単位で構成されていることによって、市街地の活用範囲が限定され、時代の要請に街が追随できないと言う理由で時代に取り残される市街地となってしまうことがあ多摩ニュータウン初期に供給された一五00戸もの一団の都営住宅公営住宅の塊の賃貸住宅のエリア、三八00戸もの都市機構そして六四0戸と八八0戸の分旧公団昭和四七年から五一年までに建設された住宅が集中している諏訪永山地讓団地の塊など、区の将来が気がかりだ。
まさに新住宅市街地開発法によって整備された計画市街地の姿である。それだけに市場原理から取り残された利用されない商業施設や廃校になった校舎など、当初の目的をすでに終えた施設が余っている。基本的に修復型の再生計画でなければならないと考えてこうした団地や施設の再生は、いる。

すでに三五年もの間、住み続けている人々を含めて、永住できる安心があることが全てを建て替えることが、経済的に有利だとする意見もあるようだがまちの姿である。経済活動を優先する為に個人の生活が犠牲になることがあるとすれば、それは多数決の暴白か黒か白も黒も力である。

別の論点

地価公示価格

注意点2
土地利用計画はではなく共存してこそ理想的な共生

が生まれる。まちづくりは排除の論理ではなく、共生の論理で遂行すべきものでなければならない。現在、六四〇戸の諏訪二丁目住宅で建替計画が進んでいる。住戸数が倍増する計画がされていて、地域に与えるインパクトは大きい。こうした事業がこれまでの不備だった土地地域にとってふさわしい事業になるためには多くの地域の意見を採り入れ利用を改め、ダイナミックに修復していく思想が必要になる。

とりわけ都市機構の賃貸住宅に隣接して一体的に開発された地区での建替であり、隣接敷地のみならず周辺の街路整備や土地利用を含めた将来的な計画を策定しながら建替計画が進むことが望まれるやりすぎた街区構成スーパーブロックで計画された多摩ニュータウンには不便なことが多々発生している。
とりわけ初期のスーパーブロックは区画整理区域が組み込まれていないために、土地の自由な利用が制限されていて、コンビニエンスストア1つ建てられない土地利用になっている。特にコンビニエンスストアは自動車利用を念頭に配置するため、沿道沿いの土地を確初期のスーパーブロックには土地利用計画が厳密に定められており保することが多いが、スーパーブロック内にあった一部のスーパ商店などを誘致できる土地は無い。
結局、マーケットが二四時間オープンの看板を上げた。幹線道路と居住地の高低差が大きいので、また、歩行者専用道路からバスの走る車道に降りるのに階段や長いスロープを利用するしかなく、バスに乗るのも不便だし車椅子だと電動車椅子でなければとても対応できない急勾配のスロープばかりがそこにはもう大変。

ある。当時は基準が緩やかだったのか、スロープでさえあれば自転車や乳母車などの移動には支障がないと思ったのか、若い子育て世代が集まった時代には、老々介護など想像だに出来なかったのだろう。子育て都市が多摩ニュータウンのイメージだったのだから致し今後はこの街で高齢者も生活していかなければならないことを念頭にす方ないとはいえ、ると改善は待ったなしだ。
時は今、高齢化が問題になり、バリアフリーにノーマライゼーションの言葉が世間の常識となり、今ではユニバーサル都市という概念を国は多摩ニュータウンに持ち込もうとしている。『ユニバーサルデザインの複合都市に1老朽化ニュータウンを再生へ国土交通のタイトルが二00五年のニュータウン再生の新テーマである。
ユニバーサルデザイ省』「障害者·高齢者·健常者の区別なしに、すべての人が使いやンそのものは辞書によるとすいように製品·建物·環境などをデザインすること。
一九七四年、アメリカのメースにとなっており、住みづらい状況を改善しようと言う試みは美しいよって提唱された概念」が国の計画にどこまで期待して良いのか結果を待ちたいものであるもし、多摩ニュータウンが時代を通じて使い続けられるユニバーサルデザインの街になるとすれば、今後も引き続き機能や性能の改善を通してリ·モデリングされるに違いない。

遺産分割の方法による節税対策(相続開始後の対策)これは国の施策展開を待ちたいが、やはり住民の自主性に期待したい。多摩ニュータウン大きすぎる土地利用を繰り返してきたことで、それぞれに大地主を育んできた。は幸い都や公団公社の賃貸住宅は大地主の貸家である。また、分譲マンションの管理組合は大規模団地を管理運営する大地主である。
管理組合には修繕積立金という金融資産があり、大

規模な土地の活用について判断できる管理組合という組織を持った団地が集積しているのが多摩ニュータウンの姿である。また、そこに居住する人材は首都圏の企業に勤めているエリートであり、退職した富裕層でもあるのだから、地域に貢献するつもりになれば大いなるパワーを発揮するに違いな建物や都市基盤はしっかりしている。そして人材は豊富だとすれば、い。
資力はある。これに優れるものはないと言い切れるのではないか。多摩ニュータウンの底力の試されると大規模すぎる土地利用はこうした副産物を残した。ころである。

人·物·金の三拍子揃った多摩ニュータウンを活かすのも殺すのも居住者一人一人の意識である大規模マンション開発を占う多摩ニュータウンでは民間のマンション建設が相変わらず続いているグラフは私が確認している限りの新住区域での民間マンションの整備状況だが、区画整理区域も合わせるとさらに多くの民間マンションが建設されている。
これらの民間マンションは殆ど完売が続いているので、用地を供給する東京都と都市機構の売却が続く限り、多摩ニュータウンのマンション供給は続くと思われ現在の多摩ニュータウンのマンション供給は、公社や機構が直接住宅供給できなくなったことから、その担い手は民間のディベロッパーに委民間ディベロッパーの事業としてリスクを少なくすることが土ねられている。

そこでは、売れる住宅が供給されることになり、その為に基本的に土地の地購入の条件となる。価格は販売予定価格から逆算された採算ラインが売買価格となる。いわばそれが市場の土また、マンション購入者は周辺のマンションと比較して、地価格ということになる。価格が安いことが購買の動機となることから、順次販売されるマンションが売れるマンション地価のコントロールは欠かせない。

創業30年感謝の会

美しい街並みは地域の財産

つまり、地価は毎年下降することがであるためには、未処分の用地を整理するためには必要で、土地の路線価も毎年五パーセントは確実に減少し続けてきた。

このようにして、一物件100戸を超えるマンション供給が続々と登場している現状の中で、一団地六八○戸もの定期借地権付き民間分譲マンションや多摩市最大のマンション五三〇戸、多摩ニュータウン最大では八四五戸のマンションも完売してしまった。多摩センター駅周辺ではさらに新たな分譲マンションの供給も進み、今後もマンション供給の勢いは止まらないと思われるほど、マンション建設が頻繁にある。

民間のマンション供給で効率を考えると大規模マンションにならざるを得ないのだろうが、ある以上、これまでの公的な開発とは一八0度異なり、緑地も殆ど無い、容積率を目一杯使った土地利用が展開されている。いつかは老朽化して寿命が来る建物であるが、多摩ニュータウン初期の大規模団地ならば、建替を検討する余地もあるが、現在建設されている民間のマンション群の建替は現実的ではないだろう。
余剰容積をベースにした建替計画は成り立たないし、高層マンションに住み着いた世帯を移動させることも至難の業である。定期借地権マンションであれば期限が来れば必然的に退居して解体することになるが、一般のマンションではそうはいかない。
とりわけ超高層などのマンションを建て替えようとした場合には、実現は途方もなく困難だと思ってしまう。

結局、現在、供給されているマンションは100年や二00年という超長期の利用を前提に維持管理するという選択が取られるはず。すでに容積を目一杯使った建物であり、等例え今後建築基準法や都市計画法が大改正され価交換などの建替手法にはならないのだ。て容積率が倍になったとしても多摩ニュータウンが世界的に注目され、多摩のマンハッタンにもならない限り容積率を活かした建替は困難なのだ。
もちろん多摩ニュータウンが将来ともホットスポットであることを前提としなければ既存住宅の維持にも困難が生じることになり、マンションの評価が問われる時代が早晩、到来するだろう。良いマンションは高く売れ、悪いマンションは見捨てられるという構図は市場に住宅が潤沢に供給されることによって発生する価値観である。

信頼できる現在、大量に供給されたマンションや団地の中で、このマンションは衰退する。このマンションは生き残るだろうと言う予測は容易に付く。それが大規模に供給された分譲マンションの顛末であるように思う。もちろん、公的な団地も同様な憂き目に遭うことを避けることはできないその為にも居住者自らが地域をホットスポットにし、建物のレベルをアップさせるような工夫を重ねることが大切になる。
計画規模と実態人口のずれ「計画規模-一九八〇ヘクタール当たり、多摩ニュータウンの開発は計画人口約三四万人現在人口約110万人」が都市機構の公式ホームページからの情報だったが、同時期の八王「総面積約二八九〇ヘクタール当たり、子市のホームページには居住人口約二八万人」と謳われていた。
また、東京都都市整備局のホームページには「計画面積二九八四ヘクタール、計画居住人口三0万人、現在一八万人」、そして東京都南多摩保健所が出している多摩ニュータウンの人口動態「総面積-一九八〇ヘクタール、によると建設計画での居住人ロ約三0万人、平成一五年時点居住人口110万0四0五人」となっており、それぞれの機関により公表数字が微妙に異なっているというのが多摩ニュータウンの特徴でもある

「ニュータウン当初の計画を確認するために昭和四八年発行の日経新書精一著」を参考にすると『計画人口は、当初の三0万人から四一万人に変更して少しでも多くの住宅が供給されるようはかられた。

計画戸数は10万九六00戸。ただし,自然保護の観点からふたたび人口をやや減少させようとする動きが見られる。事業期間は昭和四一年から五11年と予定されている。』とされており、計画人口にも浮き沈みがあったことを物語っている。計画期間も昭和五二年を目途としていたが、結局は未だに未造成の一九住区を残す状況で、当初の完了予定から三〇年も経過したことになる。
こうした人口計画のもとに整備されてきた多摩ニュータウンではあるが、計画人口に対して実態人口の把握が難しく、とりわけ四市に跨っていることと多摩ニュータウン区域が町丁目に合っていない区域設定であることなど、人口把握が難しい条件がさらに加わり正確な調査ができない状況がある。
こうした条件の中でも東京都南多摩保健所の人口動態調査は平成11年以降、住民基本台帳ベースでの多摩ニュータウンの人口調査を継続していることもありデータとして信頼できるものだと考えている。筆者も平成11年の国勢調査データに基づいて多摩ニュータウン区域の人口を集計して調査区が区域外と区域内に分かれるところは案分して、みた。
調査区毎に拾い出してみたその結果は一九万六100人と言う数字で南多摩保健所が平成一三年一月一日現在の住民基本台帳調べの一九万六五八八人とほぼ同様な数字なので概ね正しい数字だと考えている。
ただ、多摩ニュータウンは学生も多いので、住民票をベースとした住民基本台帳と実態ベースの国勢調査では実態の方が多く出るという特徴もあるのだが一概ねの数字はあっているという意味で正しいと考えられる多摩ニュータウンの人口把握は難しいが、計画人口はさらに曖昧なものになる。
また「計画人口と目標とする居住人口は違う」という説明や計画人口は修正したという経緯もぁり、その時の状況で動くのが計画である。多摩ニュータウンの場合も当初の計画人口三四万人は一世帯の人員が四人として積み上げられたもので、すでに世帯分離が進み出生率も史上最低を示す時代にはこの計画人口も当てにならないことになるでは本当の計画人口はどう考えれば良いのか。
計画人口は目標人口でもあり、施策的な誘導なども加えて決定するものだが、ここでは人口の実態をベースにして、現実に土地の残っている面積から戸数を推計して積み上げてみることにしよう。
法定後見人