1階には台所と居間

印鑑登録証明書

とりわけ移住し易い集合住宅団地から住み替える団塊世代は急増すると思われるエレベーターのない環境の中では住み続けられないことは判っており、少なくともバリアフリー環境を求めて移住するという選択は現実的な転居の動機として多くの団塊世代が意識している問題である。そして漸く就労や子育てから開放されて、新たなライフスタイルに変えるという選択と、高齢化というライフステージに対応した住まいを獲得する為に積極的に住み替えを始めるに違いない。多摩ニュータウンの居住者に対するアンケートの多くが、今後とも住み続けたいという意識の高いことを結論づけているが、詳細を見ると非常に疑わしいものがある。
多摩市

の世論調査(一三)ずっと住み続けたい当分は住み続けたいではの八一·二と当分は住み続けたい当分定住派としているが、パーセントをとするの意味は深それは市外に転居したい理由として、通勤通学、生活環境、住宅事情、長である。
同族会社を設立(すでに同族会社がある場合は仕事の都合、近隣関係を理由として回答項目を作っているが、最も多かった選択肢はそのの三六·六パーセントであり、そこに転居の本当の理由が隠されているように思う。他当分は住み続けるが、子育てが終わり定年退職後には住み続ける理由がなくなるという状況の中で、今後の団塊世代の退職者達が多摩ニュータウンに住み続けるかどうかは、まさに多摩ニュータウンの魅力を団塊世代がどのように受け止めているかを現すこととなる通勤·通学が不便だから市外に転居したい理由の二番目は三五,七パーセントとなっており、続いて生活環境が良くないから一六·一パーセントの順になっている。
ニュータウン居住の団塊世代にとって、子育てと通勤が無くなった定年後は、こうした居にわかに団塊世代へのラブコールが始まっ住継続の理由は無くなっている。地方都市で、た中で、定年を迎える団塊世代がどのような行動を示すかは定かではないが、ゆとりのあ

る世帯のみが移住を考えニュータウンから離脱し、余裕のない世帯のみが残っていくという構図が生まれることも想像に難くなぃ。

こうした状況に対してニュータウンが今後も活力のある都市として存続するためには、豊かな世帯を逃さない魅力あるニュータウンに改善することが必要である。ニュータウンには退職者達が求める田舎暮らしに共通した要素も持っている。こうした魅力を積極的に活かして、地域に発信していくことが必要である。

行政の役割はアンケート結果を都合良くとらえて八割が定住派だとして解釈するのではなく、もしかすると四割が移住するかもしれないという危機感を持って、今後も住み続ける世帯を増やす努力をすることが大移住するか否かの選択はあくまでも自由な選択であり、団塊世代がニュータウ切である。

ああ天国!天国!

ンとの関わりを継続させるかどうかは、地域の魅力づくりに掛かっているのだから。二地域居住国土交通省国土計画局総合計画課が「『二地域居住』の意義とそ一100五年三月二九日、の戦略的支援策の構想」について発表した。
都市住国土交通省によると二地域居住とは、民が、本人や家族のニーズ等に応じて、多様なライフスタイルを実現するための手段の一つとして、農山漁村等の同一地域において、三ヶ月程度、中長期一定期的·反復的に滞在すること等により、当該地域社会と一定の関係を持ちつつ、都市の住居に加えた生活拠点を持つこと』としており、郊外に住宅を確保して家族を住まわせ、都心に通勤地獄解『マルチハビテーション』田舎消のワンルームを確保するという嘗ての構想とは異なりを生活の中に捉えていることに違いがある暮らし

将来行いたいの内訳をみると、全回答者に占める割合で、まもなく始める予定実行予定分が0.七パーセント、制約はあるが行いたいが三·八パーセント、強志向分制約が解決されれば行いたいが三六·一パーセント』となっており、弱志向分実に半数が『二地域居住』に興味を抱いているということになる。
倍率方式当分は住み続けたいこの結果と多摩市での居住継続のアンケート結果のという解答と組み合わせて考えると、かなりの数の『二地域居住』志向者が現れてくるように思われる。実際、身近な友人達がすでに『二地域居住』を始めていて、かく言う私も10年ほど前に山梨に土地を確保し小屋を建て始めており、世代に共通するニーズであると思われるしかし、現実には移動手段や日常の忙しさなどで利用する機会が少ないのも事実で、必ずしも『二地域居住』が的を射た方策であるとは思えない面もある。
今後、こうした傾向がニュータウンから多くの転出者を生むかどうかは未知数であるが国が言うように『二地域居住』が理想だとすれば、『都心』多摩ニュータウンをとして理解し『地方圏その他の市町村』を求める住み分けが生まれると考えることもできる。
またニュータウンそのものが都心と田舎の両方を持っているという考え方もでき、その場合は

敢えて11地域での無理な生活ではなく、田舎暮らしを味わえる都会としての暮らしが実現できるのではないかとも思う。というのも『二地域居住』は言い換えれば別荘保有と同様な状況であり、別荘管理の問題と同様な課題がある。

一般的に別荘を持ち、維持管理するよりも、既存の宿泊施設を利用した多様な選択のあるくらしの方が経済的であるということもあり、必ずしも三地域居住』が『二住宅居住』にはならないと言う背景もありそうだ。

相当の地代

加齢に伴う移動手段や11カ所の住宅の管理を考えると維持管理は容易ではなく、その都度、最適な宿を求めて気軽に旅行を楽しむ方がベストのようにも思えてくる。従って1カ所で地域の要素を持つニュータウン、『一粒で二度美味しい』「理想の居住要素を持つニュータウンは、本来のなのかもしれないとも思えてくる。地」多摩ニュータウンでは里山活動が盛んである。炭焼きや稲作が楽しめる場所やグループ活動がある。自宅から徒歩で山歩きできるコースが整備されているし、筍堀や山菜を摘むことも日常的にできる環境がある。
自家菜園を確保することも可能であり、悠々自適の生人々の本音は山奥で過ごしたいとは考えてなく、活を楽しむこともできる。実の所、そこそこ都市の利便性を享受しつつ田舎暮らしを楽しめれば良いと考えていると思う。ニュタウンはこうしたニーズに応える要素を潜在的に含んでいる。
とりわけ地方のニュータウンで転出が続き、空き家や空き地が散在する住宅地では、空き家や空き地を借用して野菜を栽培したり、多様な趣味の場として空き家を活用するなど使われなくなった資産を活用することで街を活性化することも可能である。
同族会社を設立(すでに同族会社がある場合はこうした余剰の土地や建物を有効に活用することができれば、地価の安いことを逆手に取った地域再生のメニューが出来上がる。定年を迎え、終の棲家を探し始める大都市の団塊世代の呼び寄せも可能だろうし、農地に隣接したニュータウンや里山を持つニュータウンでは晴耕雨読の人生がおくれるし、埋め立て地や沿岸の砂丘を開発したニュータウンであれば海浜のレクレーションを共通のキーワードとして人を呼ぶこともできる過疎化しつつあるニュータウンでも、その地にあった特徴のある個性を強調したそこだけのニュータウンとしてオリジナリティを高めることが新たな再生の方向を見ぃだすことになる。
『ナンバーワン』『オンリーワン』を見いだすまちづくりやはりではなくが必要で、過去を振り返るのではなく未来を呼び込む地域作りへの方向転換が求められている。こうした地域の意識改革により、そこに新たな居住スタイルが生まれ、新たな魅力と居住する楽しみや豊かさが発見でき、その街に住み続けたい、住み移りたいとする居住ニーズが育成されると考えている。

鉄道の延伸が間に合わず、道路整備も遅れ、最寄り駅まで四0分かけての通勤通学は苦痛だったに違いにない。ましてバスが終わってからは陸の孤島で、自主的にミニバスの運行も行ったと言うから、居住者の苦労は並大抵ではなかったろう。降雪時はなおさらで、定刻通りバスが来ない時には徒歩で山越えをしたという話は多くの方から耳にする。ニュータウン開発は計画側の苦労だけではなく生活者の下支えがあってこそ成り立つものである。

住宅団地

遺品整理

しかし、建て替えそのものが出来ないとなると、現状を如何に改善すべきかを検討すとりわけ広い敷地を有する多摩ニュータウン内の初期の団地では、ることも可能で、余剰敷地を活用した定住促進のためのバリアフリー住宅の整備など、団地内で住み替え定住が可能な方策を導入することが良いコミュニティを継続させるポイントとなる団地の場合、1棟のマンションと違い、広い土地があることで部分的な建て替えや空き敷地に新築するということも可能であることから、住み続ける団地づくりのために知恵を出して環境改善を図ることが出来るのが魅力でもある。
今後の団地の活用方法は、今あるものを如何に活かして不足しているものを足していくかがキーポイントになる団地再生の動き多摩ニュータウンの団地再生は、開発初期の諏訪二丁目住宅団地で進んでいる。五階建て階段室タイプ、戸当たり住戸面積四八平方メートル、六四〇戸の住宅群は三五年の年月を経て豊かな緑と丘陵地形の高低差のある景観で独特の雰囲気を醸し出す団地として育まれている。

隣棟間隔の広い空間には緑の芝生の広場があり、陽光に照らされた芝面はよく建物の管理も自主的に行われていて、見かけ上は構造的な問題は見ら手入れされ美しいれないコンクリート壁構造で建築されている。
及び本契約条項のいずれかに違反した時。元来、壁構造は強度のある構造形式で耐震的にも信頼の置ける永続的な活用ができる建物である。この団地が今、国の補助金や市都の税金を投入して全面建替のための検討に入っている。初期の入居からすでに八〇パーセントの住民が入れ替わっている現状から、極端な高齢化で困っている団地ではないし、団地内には子供たちも比較的多く、若い世代も定住している。年齢構成は多摩市全体とそれほど変わらないという現状から、バリアフリー化が緊

急に必要だという状況ではない。
狭くて住みづらいことは理解できるが、住まいの狭さ適合する小規模世帯にとって取得しやすい価格であることからこそ入居できた世帯も多いここで五人を育てたという方もいるのだから、狭いながらも楽しい我が家と思えば、住み続けることはできる。住み続けることに違和感が無いのに何故建替を検討するのか、その理由は見あたらない。
あえて挙げるとすれば、敷地にゆとりがあり、増床するのに効果的。つまり余っている容積を売れば建替が容易だろうという不動産投資をベースとした考え方がある。

特定の財産をわたす

もう一つあるとすれば、三五年の経過が建設当時の施工不良やその後のコンクリートの管理などの不備で構造的な問題を孕んでいて、予測されている震災に耐えられない構造であることなどが挙げられる。その場合、同時期建設の都市機構の賃貸住宅も同様な危険性が潜んでい必ずしも諏訪団地だけの問題でもないようにも思うし、ることになり、例え欠陥があったとしてもすべての棟の問題ではなく、一部の棟の改善で済む事だから全体の建替検討には及ばないと考えるのが自然である建築技術は年々向上している。当時のコンクリートが中性化していても、その進行を抑え建物を長期に活用する術はある。
従って建て替えないで良好な環境を維持していくという選択肢があるはずである。不動産は利用されてこそ価値である。世帯が小規模になってきている状況の中では四八平方メートルのコンパクト住宅は貴重である。住み続けられない高齢者はすでに転居しているし、今後の高齢化のためには、ゆとりのある敷地を活用した住宅を管理組合が建設すれば良い。

利便地区に位置する団地は必ずしも建替が結論ではなく、既存建物の活用を進めつつ、不足しているものを計画的に補っていくことが、もう一つの解になるのではないかと考えている。事を急がせないで、立ち止まって考えようではないか。コンクリートの中性化は外気の流入を防ぐことでコントロールできるし、建物に対する雨がかりを制御するためには屋根庇を取り付けることで対応可能だ。

預金と借金の両建て建物の寿命が伸びれば、あとは階段周りの手摺りや床面の滑り止めなど安全性のアップと外壁デザインの見直しで建物景観も一新できる。建物イメージがグレードアップすると同時に設備も改善しよう。給排水ガス電気、そしてインターネットなど通信関係も向上させると建物の利用価値は倍増する。何も建替だけが資産価値の向上に繋がるものではないことに気づくだろう。集会所や共用周りの外部空間の改善を進めよう。並行して、急な階段をなめらかにしよう。敷地を二分する敷地の高低差を緩和するためのエレベーターを設置しよう。
高齢者のめにはやるべき事はたくさんある。こうした計画や改善に補助金を使えないものか。建て替え一辺倒の補助金ではなく、住み続けることを支援する補助制度であってもらいたいまちづくりの呼び水はスクラップアンドビルトからコンバージョンの時代に入っているのだから……。二00七年六月現在、諏訪二丁目住宅は全面建替に向けて歩を進めている。六四〇戸を一二00戸に建て替える-括建替事業が軌道に乗りつつある。

これには事務局として私の「多摩ニュータウン·まちづくり専門家会議通称所属するたま·まちせん」も支援しているが、決して全面建替が望ましい姿としているわけではなく、これまで団地管理組合

が主導的に進めてきた10年余りに渡る建替事業の道筋が、遺漏無き事業として慎重に公平に行われることを希求しての役割と思っている。
とりわけ、大規模な開発が地域にもたらす影響は大きい。
こうした動きに対して地域との整合性をとり、さらに建替事業が地域にもたらす活性化の動きを誘発するものであることを認識した上で、近隣商店街や公的賃貸住宅の活用、さらには周辺居住者のコミュニティのあり方などを検証し、建替事業を通じて発生する新たな環境整備や地域活動を誘引する切っ掛けとなればと考えている。
補助金を管理する行政の立場ではなく、直接的に影響を受ける居住者でもない地域の専門家の立場で、地域をマネジメントする役割を担えるかもしれないと考えている注記(一四)

改葬許可書

多摩ニュータウンの暮らしを解く

住民参加の仕掛けを育てる顔の見える団地と顔の見えないマンション私の住んでいる団地は一四0戸程の中層住宅と1110戸ほどの低層住宅の組合わさった建物配置で、全員共有の集会所やミニ公園を囲むように配置された一団の団地である。
管理組合組織は変則で低層、中層、集会所の三つの組合を持つという独特の組織体制になってもっぱら自治会的な活動が主になて、集会所の管理組合は団地全体の管理組織として、り、低層、中層管理組合の理事が兼務するという構成である。四階建て、中層住宅は三階建て、五階建ての棟の組み合わせで10棟、コミュニティは階段型でエレベーターはなく上下階の顔合わせは頻繁である。

建物の管理は棟別に行われていることから、棟別に物事を決めるという点で棟単位のコミュニティも形成されており五階までの住宅群は階段の異なる隣戸の様子も窺いながら生活し、つかず離れずの関係がある。低層住戸も権利は戸建てと同様に敷地分割されているものの建物は二戸が一また、棟という単位で建設され、実態としては長屋構成になっている。
中層住宅は階段型のコミュニティであるが建物の維持管理は中層住宅全体で管理されることから、必然的に中層住宅の利害が一致して一つのコミュニティが成立する。
また、低層住宅は権利的には敷地が分離した戸建て住宅と法的にはなっているものの、鉄筋コンクリートの建物の屋根が一体となっていることと、建築協定で建物の利用に制限が掛かっていることから、やはり価値観の共通するコミュニティが形成されている。
そして、中層の組合員と低層の組合員が共通に利用する集会所やゴミ置き場、そして共有の道路や広場などの管理は共通の資産管理を通じて低層と中層の団地全体のコミュニティを醸成する為にうまく機能している。こうした建物環境の中で、全体の世帯数も程々であることが功を奏してか、コミュニティのまとまりは強い。
ゆたかがおか入居して110年、毎年の餅つき大会に始まって、夏はそうめん流しが定例となり、夜の映画会や飲み会も頻繁に行われていて、昼にはガーデニングクラブが団地全体の花を飾り、シニア世代中心のグループが団地を見回り安全安心をチェックする。いつの間にか男性も女性も子供も大人もお年寄りも参加する顔の見えるコミュニティが育っている。一方、最近の民間マンションのコミュニティ環境はどのようになっているだろうか。多摩ニュータウンでも二000年以降、開発主体が民間となって急速に高密度なマンション供給や住宅地開発が進んでいる。
多摩ニュータウンの公的な住宅団地の一戸あたりの敷地面積が00平方メートルが標準だったのだが、それがバブル期には七五平方メートルになり民間の開発になるとさらに狭められ五平方メートルに、そして中には二七平方メトルというマンションまで建設されている。一戸当たりの敷地面積が狭ければ、当然、高く建物を積み上げる必要があり、必然的に大規模な高層や超高層の塊の建物が現れてくる。
建物の詰まり具合を表現するのに容積率という基準がある。
敷地の面積に対して部屋内

の床面積の合計をパーセントで表したもので、100平方メートルの敷地に床の合計面積が100平方メートルの住宅を建てれば一00パーセントという事になるが、初期の多摩ニュータウンでは五〇パーセントが標準だった。

倍率方式

美しい街並みは地域の財産!!

中には二四時間営業を売りにしているスーパーも現れている時代である旧商店街のシャッター通りは滅びても仕方ない。そのかわり商店主も住んでいるニュータウソに商売の拠点を移すのも一つの選択。人のいるところにビジネスは成立するし商売の考え方を顧客本位に切り替えれば商いは成立する。とりわけインターネット販売や通販などのビジネスも成立する時代である。場所を選ばなくてもビジネスは出来るれは各地のニュータウンに同様に通じる真理であるように思う。時代は大量消費から少量多品種の個別消費時代に入っていく入り口にある。
ニュータウンにビジネス拠点が移動するとさらにニュータウンには雇用も生まれ定住化もし易くなる。都市基盤がしっかりしているので流通などへの対応も容易で、通信環境も整っている。こうしたニュータウン開発のメリットを生かした新規事業を組み立てれば効率の良いビジネスが展開できるはずであるそれに、ニュータウンには人材がいる。

住宅団地大卒の専業主婦層が比較的集中するのがニュタウンの特徴だし、持ち家取得でローンを抱えるというハードルのある中堅勤労者達がいまた、その退職者達は専門的な知識と業務経験を持ったスペシャリストも多い。る。それほどの人材に恵まれたニュータウンである。地域の活性化には大きな知恵になり知的財産でもある。加えて高齢化も味方する。定年退職者が集まることで選挙などには力を発揮し利益誘導には欠かせない勢力となろう。これからは都市の選別の時代であり地域間競争の時代である。こうした時代に勝ち残れるニュータウンであるためには、人·物·金がバランス良く集積する必要がある。
これら

の条件を一手に引き受けられるのがニュータウンである。だから私はニュータウンに対する悲劇的な見方はしていない。全国で高齢化や過疎化が進むニュータウンと悪評されたとしても、ニュータウンには人·物·金の三拍子が整っていると考えている。
それを活かすも殺すもニュータウン居住者である生活圏と行政界の谷間で多摩ニュータウン区域の八王子市域の住民が多摩市への編入を望み、一時期、行政に進言したことがある。
対象区域を地形的に見ると、多摩市に編入されることが住民サービスを容易にすると誰が見ても思うのだが、その編入は許されなかった。

総資産価額

多摩ニュータウン開発が始まる前の山林であれば、丘陵地を斜めに区切る行政界も不自然ではないが、宅地開発後は戸建て住宅団地を斜めに分断する市境は困りものだ。本来、開発に伴い行政界も整理すべきであったのだが、現実は行政界をそのままに開発を終え分譲したものだから、つの団地の中に行政界が走り、ご丁寧に区分された宅地の真ん中にも斜めに走る境界があり、居住者としては困惑する。おまけに、自治組織としての町内会も分断されているのだから、隣同士が違う行政サービスを受けることになる。ゴミの出し方から回覧板まで、隣とは違う行政サービスが行わこれではまちの運営は難しい。
とりわけ八王子市役所へは、れる。バスを乗り換え1時間以上もかかる場所にあるのだから行政サービスを受けるには徒歩でも利用できる多摩市役所の方が良いと思うのは致し方ない地区である。図書館も警察署も文化施設も多摩市の施設を利用する方が便利なのにもかかわらず、編入は許されなかった。行政界はその時代に合わせた合併や政治的な背景で決まってきた歴史がある。
しかし戦国の時代のように統治する領地で勢力争いをする時代ではない。
及び本契約条項のいずれかに違反した時。時代は三世紀である。にも関わらず、同様な思想で行政界が取り巻く不合理な現実に矛盾を感じるのは私だけなのか。多摩ニュータウン開発によって生まれた住宅地に居住するものの権利や義務はどこにあるのか、ニュータウン開発の象徴的な出来事であったと思っている。一度、地域の仲間とその境界線を歩いてみた。道路が分断されている所では、ガードレールの種類も異なり、ペンキの塗り具合も違っていた。
敷地の中に境界線がある宅地は空き地になっていたし、同じ街区なのに市の名前が違っているという不思議な光景も確認した。その地を初めて訪ねる人はとまどうに違いない。多摩ニュータウンにはこうした陰の部分がまだまだあるのだが、大きく見ると都市の構開発の区域や時代構成が、七0年代、八○年代、九0年代、造は明確で、二000年代と段階的な整備が見られ、住宅地の構成も大振りで特徴が出やすい傾向がある。

従って時代に相応した栄枯盛衰も極めてブロック単位で明瞭に表面化していることから地域毎の問題点を浮き彫りにすることが可能だと考えている。まちづくりの問題をエリアを限定した問題してクローズアップすることでこのように、固有の問題として解決方法も見つけやすいので、全国のニュータウン問題の事例として扱そこで本書では多摩ニュータウンのまちづうにはもってこいの地域であると考えている。

くり問題を題材として、全国のニュータウン再生や活性化方策の参考として、あるいは地域のまちづくり·まち育て活動の事例として、役立つ参考書としていただければ、私とし

てこの上ない喜びである国立社会保障·人口問題研究所の報告では、二00六年には人口減少社会が始まり、二〇一五年からは世帯数も減少し始めると発表されている。

とりわけ地方においては人口減少も早く現れるが東京圏も二0110年からは下降段階に入るとされる。その時、全国のニュータウンのどこが生き残れるのか、未来を展望して活動していくことが大切である。

多摩ニュータウンから未来を占う千里ニュータウンの街開きからほぼ一〇年遅れた多摩ニュータウンでは、オイルショッその後の開発である他の市域とでは明確に状況が異ク前の開発地区のある多摩市域と、多摩市域では世帯分離や住み替えで人口減少が始まっているものの、なっている。

市街化区域

他の三市では新規住宅建設が続き、人口が増加している。そのことで多摩ニュータウン全体とし人口増加が続いている開発規模は千里ニュータウンの約11倍、ては現在も尚、日本最大の新住宅市街地であり、計画当初から時代の変化に右往左往させられながら、のらりくらりと段階的な開発が続いてきた。
こうしたこともあり、全体を通してみると少子高齢化の動きも平均化し緩和されていると見ることができ、総合的に見ると世代バランスもオイルショックまでに殆どの住宅整備が終わった千里取れているという結果になる。オイルショック以降に本格的なまちづくりが始まった多摩ニュータウンニュータウンと、との違いが街の様相を違えている。
千里ニュータウンが一三年間で人口のピークを迎えたのに対して、多摩ニュータウンでは三五年経っても人口が伸び続けている所に基本的な違いがある。
土地売却のスピードやタイミングがその違いを裏付けることになるが、千里ニュータウンの開発主体が大阪府企業局であったことと、多摩ニュータウンでは都市機構や東京都が開発主体であったことの違いがその運命を決定づけたという論評もある。結果として開発初期の多摩市のニュータウン人口に着目すると、街開き後110年で下降に向かっており、限定的ではあるが少子高齢化の問題や課題を噴出させている。
しかし多摩ニュータウン全体としては今も人口増加をしているのが実態であるこのように見てくると、全国に分布するニュータウンを一元的にくくるのは元々無理があることが解るはず。
これらの帳簿価額が相続多摩ニュータウンの場合は開発時期のずれや地理的な事情から必ずしも老朽住宅が全体に分散しているのではなく、一部に集中しているに過ぎないのである多摩ニュータウンの場合は開発初期の住宅が多摩市に集中しており、必然的に多摩市は急速な高齢化で財政負担が過剰に膨れあがるという財政危機に構えることになる。こうした状況から離脱するためには人口増加がめざましい稲城市との合併も望ましいのだが、現状ではこうした議論は机上には乗らないようだ。ニュータウン開発という共通の考え方で整備されたエリアであるので、本来、行政界を区分せず融合合併の方向は示せないものか。
自治体レベルではできないことならば、多摩ニュータウン市民が公共サービスの享受する中で、市民共通の利益になるものだとして市民生活環境を融合する術を考えてみたい。行政区は違っても市民生活は共通している。その中での棲み分けを行政単位でない形で構築できれば良いと考えている。

多摩ニュータウンを模式化してみると、やはり多摩市と稲城市の市域には多摩ニュータウンが占める割合が高い。
従って多摩市も稲城市も多摩ニュータウンを主役の一つとして置かなければ行政はままならない。また多摩ニュータウンに占める面積規模としては八王子市が多摩市と,,規模である。

これらの帳簿価額が相続

定期預金の書き換えも贈与を受けた人が行う

住宅を造っても住む人がいなければ街は成立しないし、交通事情などが整っていない地区に転入する努力たるや想像を絶するものがある。とりわけ、多摩ニュータウンの最初の入居者は、開発側の経験も浅いので殆どマニュアルのないことの連続だったろう。いわば開拓者の精神で掛からなければ、到底多摩ニュータウンに住み続けることは出来なかったと思われるほど不便を強要した。だから、当初に入居した人々からの多摩ニュータウンへの思いには熱いものがある。時代はそれほど住宅不足が深刻だったという裏返しの事情があった。
当時の様子は多摩ニュータウンタイムズ社主、横倉舜111氏の報告に詳しいが一九七四年昭和四九年六月小田急多摩線が永山駅まで開通、同10月京王相模線が多摩センターまで開通するまでの間、入居した人々の苦労がどの様な試練の中で住み続けたのか、その状況が詳しく語られている。
横倉氏は多摩ニュータウンの土地取得に当初から係わり、多摩ニュータウン開発の生き字引として、われわれの多摩ニュータウン情報の原点でもある。
多摩ニュータウンタイムズが語るニュータウン初期の光景を参考までに抜粋する(一四)

-多摩ニュータウン妻子が待つマイホームに住民がピストン輸送永山地区に入居第一陣を迎えて一年が経った昭和四七年三月頃、諏訪、京王相模原線や小田急多摩線の鉄道工事は始まっていたものの住民の足の問題が解決したわけではなかった。

当時ニュータウンは、京王線聖蹟桜ヶ丘駅と小田急線鶴川駅との間を京王バス、神奈川中央バスの11社のバスで繋がれていた。朝夕のラッシュ時には途中無停車で急行してようやく間に合うというのが現状である。雪の日や雨の日に積み残された乗客の行列は気の毒であった。諏訪、永山地区には当時五千六百戸が入居しており、この三月には愛宕地区の入居も開始される。

ところが勤めから帰り桜ヶ丘に着くのが10時半過ぎると終バスはない。タクシもあるがバス料金の10倍以上を払うことになる。しかもタクシーに乗るためには長時間並んで待たなければならない。

クレープ桜ヶ丘駅のホームに電車が着くたびにホームからの階段を先を争い駆け降りてくるその足音と一人でも追い越して先に出ようとする気迫ある行動は異常ともいえる。そ新しいマイホームに住んで日が浅い、してタクシーを待つ列に加わるのである。妻や小さい子供が待つ家に一刻も早く帰りたいというのは人情である。折角桜ヶ丘駅に着いても、ここでまた三〇分、一時間待たなければならない、こんな日々が続くと、何とかならないものかと考えるようになる。だが、この新しい街はまだこれに応えられるようにはなっていない。
夜になると文字通り陸の孤島化するのが世界に誇る多摩ニュータウンの現状である京王新宿発の特急は最終が午後11時で、聖蹟桜ヶ丘駅着は同11時11五分だが同駅の最終バスには間に合わない。せっかく特急に乗ってもニュータウン行きの足はタクシー以外にはない。
夜10時半以後に聖蹟桜ヶ丘駅に下車して、折返し帰ってくる駅前のタクシーを待つ人たちで毎晩長蛇の列が続く多摩ニュータウンの入居募集案内などのうたい文句は新宿から二五分、職住近などであった。そこでこの交通問題を何とかしようと立ち上がったのが、「多摩交通問題実力突破委と称する自主運行だった。
バスのなくなった午後10時半以後終電まで、員会」京王桜ヶ丘駅とニュータウン間の約六キロを九人乗りのワゴン車で五八回のピストン輸送をする。少しでも帰宅の遅れを緩和しようと住民側が動き始めたのだった。車の自主運行車多摩交通問題実力突破委員会と書かれ横には白字で大きく小さくている陸運局は黙認していたのだろう。

アパートを建てた場合

多摩ニュータウンタイムズより

最初の住宅供給多摩ニュータウン開発最初の一九七二年昭和四七年までの11箇年に投入された住宅宅四011戸、公団分譲住宅一二三0戸であった。いずれも三九平方メートルから五11平方メートルの小規模住宅で、エレベーターなしの五階建てが標準だった。
それでも2DK3DKの団地住まいはモダンで、二〇代後半から三0代前半の世帯を中心に不便を物ともせずに転入した。当時の公営住宅も公団公社賃貸住宅も分譲マンションも110代三0代のファミリー向けの住まいとして普及し始めていた。
今と比較すると結婚年齢も子育て期も五年以上早かったから、住宅ニーズも若くして始まった。ちなみに、公団の分譲価格四八平方メートル三九0万円、1平方メートル単価八·0万円は今では考えられない価格である

しかし、四八平方メートルは四人家族を主とする世帯には余りにも狭い。多くの世帯はまもなく始まるオイルショックをきっかけに住宅双六へと始動しはじめるのである。

折か日本の住宅はウサギ小屋量の供給ら国連人間居住会議からの発言もあって、から質の供給へと日本の住宅政策を大きく方向転換させる時期とも重なった。
だからそれ多摩ニュータウンに供給される住宅の面積も六五平方メートルに、以降、そして九五平方メートルへと急速に増え、同時に多摩ニュータウンのマンション価格は五年後の昭和五一年には二三·八万円/平米、一0年後には三五.二万円¥平米をつけた。その結果、一戸の総額も一五00万から三三00万と跳ね上がっていった。
当時のサラリーマンの収入もインフレで急速に上昇していたので、中古住宅を高く売ってさらに広い住宅を購入して行くという住宅双六が住宅取得の常套手段として受け止められていた。すでにお気づきの方もあろうかと思うが、多摩ニュータウン開発でも他の公的なニュ初期に投入する住宅は賃貸住宅を中心に整備する。
タウン開発でも、とりわけ公営住宅は多くなり、都営住宅多摩ニュータウンの場合も初期投入の住宅全体の三七パーセントが都営住宅になっている。
贈与契約書の例それに引き替え分譲マンションは一九パーセントという低水不便を承知で分譲マンションを買う世帯のニーズを少なく見て、準で、多少の不便は承知でも入居せざるを得なぃ入居者を対象とした公的賃貸住宅が供給の中心になった。その場合、希少価値の分譲マンションは高嶺の花で、当時の多摩ニュータウンでは、あ

こがれの持ち家だったに違いない。多くの賃貸世帯は、将来は中古住宅でも購入して持ち家世帯の仲間に入りたいと考えていたはずで、あわよくば、さらに住み替えで最後の到達当時、点は戸建て住宅の取得を夢見た時代である。マンションは終の棲家としては不十分と思われていて、住宅双六の上がりは戸建て住宅に決まっていた。

それを受け止めるように公社や公団は最寄り駅から少し離れた丘陵部に戸建て住宅団地を造成した。これで、公所得階層に応じた住宅政策のモデル配置が完成した。営住宅から戸建て持ち家まで、居住者もそれを当然として、右肩上がりの日本経済が本物であることを疑いもしなかったし、住宅双六はある種の錬金術として市民の意識に根付いていった。
それを証拠に多摩昭和四六年に供給された諏訪二丁目住宅の入居者の八割がニュータウン最初の分譲団地、転居している事実がある。

相続税の還付請求

元々、住戸面積が四八平方メートルという狭さが原因で移転が誘発されたと思われるが、現状の居住実体を見ると単身世帯は11割以下で三人以上のファミリー世帯が五割以上と、必ずしも狭さが家族数を決定するものではないようだ。そこにその流れがバブルは狂乱物価で上昇した資産価値を生かした住宅双六が確実に存在した。景気後、一挙に崩壊すると誰が予測できたろう。従って、当時の住まいの価値観は、住み続けることが大切だという持続可能な社会を目指す現代の風潮とは価値観を一八〇度異にする状況だったに違いない。
その後の住戸面積が100平方メートルに近づいた昭和五六年頃の分譲団地、豊ヶ丘団地の入居者の住み替えは少ない。すでに建物の価格帯も上昇しており売却による利益は得られない状況にあった。その後のバブル景気にも広さという点では十分だったし、マンション管理も自主管理などでコミュニティもしっかりしていて、住宅双六は必要なかった。ただ、高齢化の波はひたひたと押し寄せており居住者は加齢している。

この団地の特徴は住宅規模は十分だが階段型住棟で、住み続けていくにはバリアフリーの対策が必要であり初期の団地とは違う、高齢化という現実的な問題が待っている。

求められる住まいの規模一九七一年、最初の分譲マンションが四八平方メートル、賃貸マンションが五一平方賃貸の方が111平方メートル広いという状況があった。
一般通念からするとメートルと、分譲の住戸規模が賃貸を上回るのが常識であるのだが、この時は逆転していた。
原因は当時の分譲マンションに対する住宅金融公庫融資の面積基準枠に限界があったことで、住戸面積を広くしたいとする公団賃貸住宅の方向と逆転現象を起こしていた。それほどマンションが持ち家住宅として一般的ではなく、抵当権を設定する不動産として金融機関には信用がなかったということに尽きる。

日本のニュータウンを知るまた住宅金融公庫のマンション融資そのものも一九七〇年、多摩ニュータウン第一次供給の前年度に実験的に始まったばかりで、マンション融資も手探りだったと言える。とりわけニュータウンとはいえ、開発途中の山間部の土地に落下傘で降りるかのような陸の孤島の住宅への融資だから、土地本位制の中で、マンションの資産価値の評価も難しかったに違いない。とはいえ、余程、住宅に困窮していなければ入居しないだろうと言う計画者側の思惑もあったのだろう。安価な小規模住宅が大量に供給され、すべてが売却された

その後、1年で狂乱物価のオイルショックがやってくる。
マンション価格も急上昇する一九七二年と一九七三年は第三次マンションブーと共に新規供給の住戸面積も拡大する。
ム、一九七七年から一九七九年は第四次マンションブームと呼ばれるが、オイルショック以降の多摩ニュータウンの位置づけは、一九七六年、他の例に漏れず公団住宅は「高.と評され、都心部のマンション供給が増え、遠·狭高くて遠くて狭い」その時期、都心回帰が始まっていた。
やがて多摩ニュータウンでも住宅面積は八〇平方メートルを上回り、とよがおかに分譲されたマンションは南面三室、当時、多摩市豊ヶ丘100平方メトルにもなる規模で供給され、ゆたかがおかと呼ばれるほど特別な面積の住宅が供給さそしてバブルれた。
さらに一九七九年以降は小規模分譲マンションの供給はなくなった。

住民票(世帯全員)

住宅·土地統計調査

従って、将来に対しての不安は少ないが、現状で困っていることを着実に改善することがまずは必要になる。これらをスムーズに運行するために、四市独白で組合を設立させたり指定者管理制度を活用した業務移管などが考えられ、法制度などが次第に充実していく中で、市民サイドに立った利用環境が生まれることを期待したい。五住宅ストックの更新と新規供給

多摩市の住宅供給の状況最初の入居から三五年、区画整理区域と新住区域を合わせて約110万人、約八万世帯が居住している。
住宅の数とすれば九万戸近くが建設されており、さらに年間1000から4H,.っ衣バ谷%一五00戸ペースで供給が続いている。それも民間分譲マンションや戸建て持ち家が殆どを占める。
賃貸住宅は供給過多で空き家の発生が顕在化している状態が続いていて現在、都市機構や公社の賃貸住宅には空き家が目立っている。同様に、区画整理区域の賃貸経営アパート経営も困難な時期を迎えている。
者も影響を受け、舌、経営破綻で、民間マンション業者に売却した地主の話、空き住戸で困っている家主の話公共機関から土地を返されて困っている地主など、不況下で土地にまつわる話は多い!方、こうした賃貸住宅の土地を建て替えて民間分譲マンションが建設されている。多摩

ニュータウン周辺の既存市街地では、こうした市場原理でもマンション建設が進むことにとりわけ、多摩市の既成市街地では、なる。
建設後10年ほどの賃貸マンションを解体して分譲マンションに建て替えたり、今まで見向きもされなかった河川に囲まれた未利用地思いがけないマンション供給に驚かされる。
を利用した大規模マンションも現れる程で、平成11年の国勢調査で、多摩市の人口は東京都下で三宅村に次いで人口が減少した白治体として一躍有名になったが、平成一七年の国勢調査ではわずかではあるが人口は増加した。
課税価格の合計額さらに五年後の平成11年調査では顕著な増加が見込まれるだろう。平成11年の人口は一四万五八六二人が平成一七年には一四万五八八七人と五年間でわずか二五人の増加ではあるが、これは大きな第一歩でもあり、平成11年までの五年間で二二五一人も減少していた流れが変わったのだから画期的な事である。全体から見れば相変わらず世帯分離は続いているので、人口減少傾向は継続しているのだが、それ以上に人口が増加したのである。
その理由は単純に言えば新規開発の住宅供給が急増し、転入人口が増えたことに他ならない。二000年以降の民間のマンションブームが多摩市にも及んできた結果である。多摩市域のニュータウン内の土地でのマンション供給のみならず、区画整理区域や既存区域のマンション供給が増加した。その勢いが世帯分離によって減少する数を凌駕した格好になったのだ。
多摩市にとってみれば、人口減少が続き高齢化が懸念されてきた中で、新たなマンションの供給が周辺から人口を引き寄せてきたことは大きい。

本件借地契約

こうした動きを裏付けるものとして住民基本台帳の人口動向と世帯数の動向で見ることが出来る。最近のマンションラッシュの状況が人口減少を抑止している様子がわかる。全体としては世帯分離で人口減少基調は変わらないが、新規住宅供給により年度の切れ目で一挙に世帯数が増加し、それにつれて人口も回復する様子が見て取れる。とりわけ1100六年四月の動きは顕著で、全世帯の1パーセント二ヶ月で六00世帯以上の増加である。の増加は、大規模住宅開発が発生していることの証でもある。
実際、多摩センター地区のマンションや区画整理地区のマンションの供給が相次ぎ、世帯数が増えていった。

多摩市のマンション供給の今後現状のマンション供給が結果として世帯数を増加させ、人口を引き込んでいるので、人口減少に悩んできた多摩市にとって、今後の高齢化不安の中で安心を喚ぶ事柄であるよう多摩市では新たなマンション供給により若い世代の転入を歓迎しているが、に思う。
現状のマンションラッシュもその流れに貢献するものであろう。
土地売却やマンション建設の動向を見ると、さらに人口の伸びが期待できるし、これにより税収が増加することで安定した自治体経営を支えることが出来るとの考えでいるようだ。しかし改めて考えてみるとマンション購入者がどこから来ているのか、購入している年齢層の実態はどうなのか、住み替えの実態が解らなければ真相は掴めない。

既存のデータをベースにコーホート法による分析をしてみると、多摩ニュータウンからニュータウン外の市街地である既存地区への中高齢者世帯の人口移動は統計的にも出ていて、多摩ニュータウン内の住宅からエレベーターなどの付いた新しいマンションに比較的高齢の世帯が移動しているデータの裏付けも得ている。
こうした移動によって発生する住み替えが、高齢者から若い世代に所有が移る住まいの循環を伴っていることが統計的にも解ると、多摩ニュータウンの未来が明るいかどうかがはっきりする多摩ニュータウン内での民間マンション供給は勢いづいていて、現在、年間1000戸から一五00戸ペースで新規供給が進んでいる。
形見分けの品を搬送こうした住宅に対して多摩ニュータウン内では確実に住み替えなどの循環も発生しており、現状では完売しているマンション購入者のモデルルーム見学者の動向は、関係者からのヒアリングで確認する限り、多摩ニュタウン内及び周辺市街地からの見学者が多いとの情報もあり、近隣からの住み替えが需要を生んでいるようだそれを裏付けるように、八王子市域や稲城市域のファミリー向け賃貸住宅の空き家が増加している。
とりわけ比較的高家賃の公的賃貸住宅に空き家が目立つ団地が頻発しており家賃を払うよりも持ち家を購入するという動きが顕著になっている。今後はこのままの推移でマンション供給が進めば、さらに利用されない賃貸マンションを生み出し、地域の住宅供給バランスが崩れ、安全安心と言った地域の居住環境の問題にまで影響を与えかねない状況が生まれる可能性がある。

二00六年八月、大量の空き家を抱える都住宅供給公社は優良賃貸住宅の家賃を大幅に見直した。とりわけ多摩ニュータウン内の比較的新しい住宅については最大二五パーセントという減額を実施した。六○平方メートルで六万円という価格帯は都市機構の家賃と比較しても極めて安く、都市機構の入居者が移動することも現実になる。

意外に安いね

そうなると引き続て都市機構の賃貸住宅も減額することになり、今度は周辺の民間賃貸住宅の家賃相場も下がるはずである。大量に割安なマンションを供給したことが、比較的高い新しい公的賃貸住宅を敬遠するようなり、賃貸住宅のドミノ現象が始まった。捨てるより活かす大量の住宅ストックを造り上げ大量生産大量消費の時代に多摩ニュータウンは生まれ、てきた。
従って、戦後の急成長経済の中で作られた建物や市街地は、大作りで均質な建物の大量供給が住宅にも反映していて、マッチ箱のような建物が平行に配置されている団地

風景が大規模に広がっている。それから一九七三年昭和四八年の第一次オイルショッ住宅の面積が増え始める。

住民票(世帯全員)戦後漸く住宅戸数が世帯数クを経て、同年の住宅統計調査で、を上回ったと発表され、大量供給よりも質を重んじる住宅供給へ変化していくことになる第二次オイルショックが一九七九年折からの「ゼロ成その後、昭和五四年に起こり、の時代でもあり、量から質への動きが加速され、長」マンションの形も配置も作り込みも少しずつ手が加わってくるに新耐震計算法が施行され、住宅公団が住宅·都市整その後一九八一年昭和五六年建物デザインにも勾配屋根や外壁備公団となり、積極的に分譲団地づくりを推進し始め、のタイルが取り入れられ、民間ではオートロックも普及し始める。
一九八三年(昭和五八には区分所有法の大改正もあり、年)いよいよマンション時代の充実へと進んでいくことになる。このような時代を経ているマンションも、初期の大量供給時代の余波で立てられたマンションは小規模であることや同一規格で多様性の時代に合わないことから、次第に人気が無くなってきている。

とりわけ、分譲団地は資産評価が低く時代に合わなくなった住棟を建て替えて、広さを確保しようと検討が始まっているが、全ての団地で建替が成立するわけではなく、今後、地価の上昇はあまり見込まれないとすれば、五〇平方メートルに満たない小規模住宅棟の有効活用も重要になる。
分譲マンションの場合には個々の住戸や棟が勝手に増築やエレベ賃貸住宅と異なり、ターの増設などが行えないことから、部分的な改善について全体の合意を取ることは難しい。