ゆたかがおか

クレープ

これらは今でも緑豊かな団地として管理されており、隣棟間の芝生の管理も自主管理で、エンジン付きの芝刈り機の数は相当なもので、居住者が参加する緑地管理の日の活動風景は圧巻である。それだけ空閑地が多く日当たりの良い芝生の広場があるという意味で、緑の環境は豊かである。それに引き替え、最近の民間開発のマンションは高密度である。多摩ニュータウンでは開発に制限があり一概ね一五○パーセントでコントロールされているが、それでも建物の高さは超高層も現れている。三階建てもあるが二四階建てもあると言うように敷地の活用は多様である。
それが駅周辺や新住地区からはずれて区画整理地区になるとたちまち容積それが一戸当た率は増加して、容積制限の三00パーセントを目一杯使った計画になる。そのマンションの住戸数は約一七〇戸。り二七平方メートルのマンションになる。私の住む団地の住戸規模と変わらないコミュニティである。そこには緑の環境は殆ど無い。建物は一棟。管理組合は一つ。
管理会社が徹底した管理を約束してくれていて、平均的な管理費と修繕積立金を合わせると二万五千円ほど。おそらく一0年くらい経つと修繕積立金の見直しがあり、毎月、三万円を越える出費となろう。
さらに固定資産税と都市計画税が毎月一万五千円から11万円という所で、固定費が四万五千円から五万円の出費というそれに加えて住宅ローンとなると相当な支払いになるが、ことになる。

管理費や修繕積立金はずっと続くコミュニティの結束は自らが困ってはじめて守りたいという意識が生まれたときから始10年ほど経ったあるマンションの管理組合の相談に乗っているのだが、まる。事はマン管理会社から管理費のアップと修繕積立ション管理費と修繕積立金の上昇から始まった。金の不足を告げられてから管理組合は動いた。管理費の上昇は窓口の管理体制の変更で対応するとともに、維持管理費は他から見積もりを取ることで、管理会社の見積もりを精査した。
そして使われていなかった機械式駐車場を解体して平置きに変更し、さらにマンション管理を多角的に見守ってくれる専門の管理者を委託して出費の必要な工事について徹底した相見積もりを実施した当然、管理組合は頻繁に議論して、ある時は紛糾したが、それでも住み続けることができるマンションになるためには議論は続けられ、結果として管理費も修繕積立金も上昇させずに継続して住み続けることができるようになった。

集中した議論の末に、人と人がコミュニケーションすることによって自主的な活動が生まれ、結果として経済効果のあるマンション管理ができることが始めて共通の認識になった。つまり顔の見えるコミュニティが問題を解決できる手段であることがわかったのだ。多摩ニュータウン内には民間マンションが急速に増えている。これらのマンションを管理するノウハウが今後も蓄積されることが必要である。

その為にも地域で支えるシステムが必要だ。先の管理組合の経験が有効なノウハウになる。地域に生まれたマンション管理のノウハウが新しいマンションに行かされるシステムが必要である。マンション管理に対して自治体も協力的である。相互に情報を提供し合うことで新たな展開は可能である。

住民票(世帯全員)地こうしたコミュニティが生まれれば、その自主的な管理組合運営の実現は難しくない。

中層住宅にエレベーターを設置する多摩ニュータウンの集合住宅の九一パーセントが三階から五階建てのエレベーターのな外部とのバリアフリーが確保できない状況で、い住棟で占められている現状からすると、結局住み続けられないままでの高齢化対策になり、住戸内のみを改善しても、効果は半減多摩市では平成一四年三月策定の住宅マスタープランに基づき、する。

中層住宅のエレベーター設置に伴う設計費補助を打ち出した。二箇年ほど予算を計上したが、結局、申しやむなく提案を取り下げることとなった。込みはゼロ。そして多くの高齢者がエレベ多摩ニュータウンの高齢化は待ったなしでやってくる。

ターのない中層住宅で居住している実態を考えるとエレベーター設置は的を射た施策ではあったのだが、実態は殆どが階段タイプの住棟であり、エレベーター設置の効果が余りにも効率が悪いこと、団地管理組合という性質上、増設に伴う合意形成が難しいこと、そして法的に増設するための手続きやその為に影響を受けることが多いことなど、実施に向けてのハードルが高いことが普及しなかった理由である。

しかし、これらのことはよくよく考えれば解ったはず。エレベーター設置が現実的ではないので事業としては取り下げられたが、現状のまま放住み続けられなくなること必至である。
置すると必然的に高齢化は進み、人口の移動状況を分析すると高齢者及び予備軍のこうした住宅からの転出が盛んに行われていて、団塊世代を含む高齢期を迎える前の世代がバリアフリー住宅を求めて移動していることがわかる(一五)老後の不安を解消するために転出している現実があることを自治体は密かにほくそ笑んでいるのではないかと勘ぐってしまうが、退職金を受け取る前の資金力のある団塊世代を転出させているのも事実で、総体的に考えて市の財政にメリットがある世代をみすみす失っているようにも見える。
現在の高齢者の多くは裕福な資金を持った世帯であり、団塊世代も今後退職金の一時金や貯蓄もある世代である。こうした裕福な世帯の転出を誘導するような施策を展開しているのが多摩市の現実である。今転居できる世帯は資金力のある世帯であり、都心のマンションや多摩ニュータウン近辺に新規供給されるマンションに転出している状況は容易に推察することができる。

多摩ニュータウンの住宅·市街地

平成25年都市計画現況調査

その中で
資金力もなく結果として移動が出来ず残されている市民も居るので、こうした移動の発生が高齢福祉の必要性を迫られる市政の中で、市の財政に有利に働〈とは考えにくい。むしろ、税での支援が必要な高齢者を増加させているのではないかと気になる実態である。思うのは私だけなのか、多摩市で今後進めなければならない施策は、住み続けられない住まいに困り果てて、やむを得ず住み移らなければならないと思っている高齢者世帯等を地域に定住させることであり、より豊かな生活環境を提案して住み続けてもらうことが重要である。
急ピッチの高齢化が危惧されていて、世代交代を促したいという意識も生まれるとは思うが、実態としては自力でカバー出来る経済力のある世帯を転出させ、住宅ローンを抱え子育て支援を受けなければ共働きできない借金世帯を増加させている事に他ならない。こうした若い世代その時はさらに高齢者が増えるのだから結局は問題の先送りでありも何れは高齢化し、無責任な対応であると思われる。

市民サービスの基本は高齢者本人への思いやりであり、住みたいところに住んで、健康で生き続けるための場の提供と暮らしのサービスを提供できる環境作りを推進することが行政としてのまともな考え方である。

少しでも高齢者の転出を抑制し、元気な高齢者が楽介護保険に頼らない生活の場を演出する。しく生活できる場を増やし、その上で若年世帯の転入を増加させるよう誘導することが必要である。若い世代も高齢者が安心して豊かに安心して集結する。居住している場所には魅力を感じ、高齢化は全国どこにでも起こる現象である。その中で多摩ニュータウンだけが回避しようなんて考えるのは不公平だし、利己主義そのものである。結局は生活者にとっては幸せになれない、偏ったコミュニティを形成してしまう結果になる。
世代を越えて共生できる環境こそ、これからの理想的なまちなのであるところで、エレベーターの設置についての施策であるが、一度始めた施策を取り下げる結果になったが、多摩ニュータウン内にはエレベーターを設置するのに効果的なマンションも見つけだせば少なからずあるはず。行政施策は補助などの予算をつけ、広報して知らしめることで行政施策として全うしたと思っているが、補助なしの支援施策も有効な手段となる。
写真の団地は多摩ニュータウン開発初期、昭和四八年入居の1棟からなる分譲マ

ンションで、敷地の高低差を利用して三階が玄関の七階建てのマンションだ。
中間階にアブローチするので、エレベーター設置のない建物として建設された廊下タイプの住棟であこのマンションにエレベーターを設置することの効果は、階段型の住棟にエレベーターを設置するより数段の経済効果や居住環境の向上を図ることが可能で、行政が積極的な支援に乗り出すことで効果的な成果が期待できるはず。
日本のニュータウンを知る資金を出せというのではない、エレベーター設置の効果があるマンションとして、資金投入の効果を居住者に説明することで分である。エレベーターの設置は資産価値の向上を促し、建物全体がバリアフリーマンそのマンションがエレベーター設置効率の良いマンションとして生き返ることになる。ションであることを管理組合に伝えることでバリアフリー化の呼び水となれば行政の役割予算がないことを憂うよりも、も達成される。市民の資産を如何に守るかの知恵を出す,もし、知恵もないとすれば地域の専門家を巻き込んで、とも行政の役割である。
知恵を集高齢化を恐れない団地づくり高齢化の問題は介護だとか医療だとかの費用負担という経済問題で片づけられる場合が多いが、居住者の立場から言えば高齢者一人一人が家族の中での役割分担や地域との関わりを育むことによって生き甲斐に繋がり、病気や介護も遠のく要素を持っている。すなわち高齢者が地域で役に立つ場があれば、高齢者問題も半減するのだという確信がある。

国で言う体力増強などは、ただ単に体力をストレッチで温存させようとする消極的な対策で『元気にしていろ』では健康維持の意欲が起こらないが、孫のため家族のためただ地域のためなどと社会的な役割が加われば、意欲的な体力の維持も必要になろうというもの。

役割があってこそ、百まで生きようと言う気になるのが人間の性(さが)とりわけ男性の場合、退職すると与え続けられた役割から開放されて人生の目的すら失ったように思う人がいるが、多くの場合、それぞれの専門性を持って働いていたり、会こうした能力を活かした役割が私の住む団地には社人間たるノウハウを持った人である。

引退した人達が自らお助け隊という組織を作り、ある。ヶ月に1回、団地内や周辺の見回りとゴミ集めを買ってでているリタイヤグループがある。メンバーの中にはパソコンの得意な方がおり、インターネットやパソコン操作の個別サービスをボランティアしていたり、大工仕事が好きで団地内のベンチの修理やペンキ塗りを一手に引き受けている方リタイア組ではないが雪の積もった日には必ず朝から延々と通学路の雪かもいる。
また、きを始める人も地域での役割を買ってでる人、団地中の植栽に気配りをして定期的に仲間を募って刈り込みなどの活動をする人など、その方の生き甲斐に繋がるものである地域に自主的に手を出すことを躊躇する風潮は多くの人にあるが、それを一歩踏み出せば自らの活動で成果が得られ、充実感もある。その雪かきのおじさんは、近くの緑道につも出かけて草刈りをするのが趣味にもなっている人でもある。
ジョギングでダイエット運動をかねてボランティアで汗をかくことで生き甲斐を得ているケースであるするより、「単なるジョギングより草刈りの方が自分に向いている」という哲学で草刈りは行われており、役に立つ喜びを感じているに違いない。

家なんていらない

住まいを補う

確かにダイエット効果が現れ、スリムになっ

団地を毎日見回り、ゴミの出し方、不審な人の進入、居住者の動きなどを常にチェックしている方がいる。高齢者と言うには元気な方だからシニア(先輩)とでも行っておこうか。日頃の団地管理を一手に引き受けている。業者に委託した修繕の完了状況の確認や定管理組合役員が日常的に対応できない所をサポートする。期清掃の確認、祭りや餅つきなどの古式ゆかしき作法も教え導いてくれる逸材である。
こうしたシニアは、おそらくどこの団地にも人材が眠っているはずである。
掘り起こすことで、団地も良くなるし本人の喜びもひとしおであろう。必要なのは、個人個人の能力が発揮できる場であり、共用のものに手を出せるコミュニティ環境とそれを否定しない組合員の心が欠かせない。個々の価値観は多様だが、美しい安心なもの快適なもの雪が降ったときに雪かきものには否定しないものである。している人を見て、不愉快には思わないものだ。

もし不愉快に思う人がいる場合は、自らの雪かきの出来ない自責の念が裏にある場合で、不健康な発想でしかない。他人の親切を素直に受け入れることも重要なコミュニティへの関わりであるこうした環境が出来れば高齢化は怖くない。高齢者の知恵と力が発揮できる環境に若い世代も集まってくるし子育ても安心だ。
多摩ニュータウン全体の組織化を多摩市にはまちづくり活動のNPOとしても幾つかの団体があり、多摩市のマスタープランづくりに意見するグループもある。
しかし、多摩ニュータウン全体のまちづくりを議論する場が無いことから、まちづくりの問題が多摩ニュータウン共通の問題として提案できないことが、まちづくり意識の育たない原因になっている。
各行政サイドでは行政区域内の問題として議論されているのだが、それぞれ多摩ニュータウンの置かれた位置で温度差があり、決して足並みが揃っているとはいえない状況である多摩ニュータウンの住民サイドからすると、各行政組織が温度差のないフラットな立場政策を進めて欲しいというのが思いであるが、現実には行われていないのがで議論をし、各行政の立場では必ずしも多摩ニュータウンに対する取り組みのスタンスが真相である。

同じではなく、同じ温度で政策を進めるというのは難しいというのが本音であろう。本来それぞれの生活圏を意識しながらまちづくりを議論することで、多摩ニュータウンのまちづくりを推進することが必要なのだが、そこは生活者としての住民がイニシアティブを取って行くことが必要になる。
地域にふさわしい都市計画や文化活動、教育福祉、経済活動など多様な議論が、多摩ニュータウンを構成する四市の立場を背景にしながら展開されることが大切である四市の市長が同一のスタンスで会議をしようと平成一三年五月、八王子市、町田市、多東京都副知事及び都市基盤整備公団理事による多摩ニュータウン摩市、稲城市の市長、が開催され、「多摩ニュータウンまちづくり協議会」サミット四市を中心とするの設置が合意された。

これを受け四市の助役と都の都市整備部長、そして公団の多摩ニュータウ「多摩ニュータウンまちづくり協議会」ン事業本部長がメンバーとなってを開催してきが、「地域活性化結果として図書館の相互利用を目指し地域のポータルサイトを構築する

部会」とアダプト制度について検討する都市管理部会の二つの専門部会を定め活動することを決めた公団や東京都が開発から退いていく中で四市の結束が必要でぁこうした動きは、今後、ることをアピールする切っ掛けにはなったが、多摩ニュータウンに取ってはさらに継続的な都市計画や都市経営のバックアップ組織作りが必要で、一時的なパフォーマンスでは間に合わない段階に来ている。
親の含み益を移転し一時的な専門部会ではなく、恒久的なまちづくり組織が必要その為には、だと考えている。多摩ニュータウン全域を研究活動の対象として活動する多摩ニュータウン学会やまちづくリの専門家などが、多摩ニュータウン全体の情報を統括して都市計画や都市経営についての計画を策定するなど、多摩ニュータウン全体を掌握する新たな機関の必要性を思うのだ。多摩ニュータウンには独自のまちづくり計画が必要である。これまで東京都や都市公団が都市計画や都市経営を担ってきた歴史がある。
それが独立行政法人UR都市再生機構に組織替えしたことによって多摩ニュータウンのまちづくりには係われなくなり、東京都も自らが抱えている未利用地を売却する地権者の一人になってしまった。そこでは何らかの形で行政が係わる必要があるのだが、東京都も都市機構も関係四市に任せてしまった格好しかし、各市には温度差があり、多摩市の担当者は真剣に対応するが町田市の担である。
当者は末端のことで、居住者と対峙するにも扱いは違うことになる。
これは致し方ないとで、各自治体の部分管理で多摩ニュータウン全体をコントロールするには無理があるそこで居住者自らがまちづくりを提案し、各自治体がその提案に習って事業展開をするという構図が求められてくる。

これらを司る組織が欲しい。その方法としては、各市から温度差に応じた人材を投入した独立した組織を編成する,とである。面積比で人数を配分して行く方法もあるし、市民サービスという視点では人口による人員配分も考えられる。さしずめ多摩センター辺りに事務所を置き、多摩ニュータウン全体の施策について協議する環境を作ることから始めることになる。
当初は多摩ニュータウン全体を理解することから始めて、問題点の掘り起こしから始めることになる行政施策としての提案など、まちづくりまち育てに関する議論は徹底して多摩ニュータウン発の議論として、問題課題のとりまとめからまちづくり方針の整理、そして計画の具体化実現のための施策の展開など必要な項目について徹底的に議論することから始める,とになる各メンバーに共通の問題意識や目標が次第に備わっていき、徹底した議論は、具体的な事業化に向けて発信するエネルギーとして蓄えられる。
そこに集まったメンバーは各市から集まった人材ではあるが、多摩ニュータウンの場において議論することで、必然的に多摩ニュータウンの中を意識し、提案や問題提起が出来るようになる。多くのアイディアや取り組み課題はその場に居てこそ生まれるもので、傍観者では行動に向けた力にはならない。核となる場に一同することが大切になる。

だからこそ、このように徹底して議論した事業計画を各市に持ち帰り、各々の自治体で事業化する,とになる。その場合は各市の共通認識の上で行われる事業であることが周知されているので、迷うことなく着実な事業推進が可能になる。迷いは必要なく、決まったことを行う自治体の役割があるのみである。このような多摩ニュータウンを司るまちづくり組織が継続

的に運営できる場が生まれることを望みたい。

多摩ニュータウンは既成の市街地とは大きく異なるエリアであり、その中をコントロールするのに既成の市街地と同様な視点では解決しないことが多い。そこで、独自の環境である市街地を政策的にコントロールする独立した政策集団の場づくりを始めていただきたい。
住み続けるためにマイナスをプラスにする高齢者が安心して生活できること安心して子育てが出来ることとは内容は違うとが背景は同様な意味合いを持っている。
預貯金等

これらの帳簿価額が相続

預貯金等の名義変更贈与

住宅を造っても住む人がいなければ街は成立しないし、交通事情などが整っていない地区に転入する努力たるや想像を絶するものがある。とりわけ、多摩ニュータウンの最初の入居者は、開発側の経験も浅いので殆どマニュアルのないことの連続だったろう。いわば開拓者の精神で掛からなければ、到底多摩ニュータウンに住み続けることは出来なかったと思われるほど不便を強要した。だから、当初に入居した人々からの多摩ニュータウンへの思いには熱いものがある。時代はそれほど住宅不足が深刻だったという裏返しの事情があった。
当時の様子は多摩ニュータウンタイムズ社主、横倉舜111氏の報告に詳しいが一九七四年昭和四九年六月小田急多摩線が永山駅まで開通、同10月京王相模線が多摩センターまで開通するまでの間、入居した人々の苦労がどの様な試練の中で住み続けたのか、その状況が詳しく語られている。
横倉氏は多摩ニュータウンの土地取得に当初から係わり、多摩ニュータウン開発の生き字引として、われわれの多摩ニュータウン情報の原点でもある。
多摩ニュータウンタイムズが語るニュータウン初期の光景を参考までに抜粋する(一四)

-多摩ニュータウン妻子が待つマイホームに住民がピストン輸送永山地区に入居第一陣を迎えて一年が経った昭和四七年三月頃、諏訪、京王相模原線や小田急多摩線の鉄道工事は始まっていたものの住民の足の問題が解決したわけではなかった。

当時ニュータウンは、京王線聖蹟桜ヶ丘駅と小田急線鶴川駅との間を京王バス、神奈川中央バスの11社のバスで繋がれていた。朝夕のラッシュ時には途中無停車で急行してようやく間に合うというのが現状である。雪の日や雨の日に積み残された乗客の行列は気の毒であった。諏訪、永山地区には当時五千六百戸が入居しており、この三月には愛宕地区の入居も開始される。

ところが勤めから帰り桜ヶ丘に着くのが10時半過ぎると終バスはない。タクシもあるがバス料金の10倍以上を払うことになる。しかもタクシーに乗るためには長時間並んで待たなければならない。

桜ヶ丘駅のホームに電車が着くたびにホームからの階段を先を争い駆け降りてくるその足音と一人でも追い越して先に出ようとする気迫ある行動は異常ともいえる。そ新しいマイホームに住んで日が浅い、してタクシーを待つ列に加わるのである。妻や小さい子供が待つ家に一刻も早く帰りたいというのは人情である。折角桜ヶ丘駅に着いても、ここでまた三〇分、一時間待たなければならない、こんな日々が続くと、何とかならないものかと考えるようになる。だが、この新しい街はまだこれに応えられるようにはなっていない。
夜になると文字通り陸の孤島化するのが世界に誇る多摩ニュータウンの現状である京王新宿発の特急は最終が午後11時で、聖蹟桜ヶ丘駅着は同11時11五分だが同駅の最終バスには間に合わない。せっかく特急に乗ってもニュータウン行きの足はタクシー以外にはない。
夜10時半以後に聖蹟桜ヶ丘駅に下車して、折返し帰ってくる駅前のタクシーを待つ人たちで毎晩長蛇の列が続く多摩ニュータウンの入居募集案内などのうたい文句は新宿から二五分、職住近などであった。そこでこの交通問題を何とかしようと立ち上がったのが、「多摩交通問題実力突破委と称する自主運行だった。
バスのなくなった午後10時半以後終電まで、員会」京王桜ヶ丘駅とニュータウン間の約六キロを九人乗りのワゴン車で五八回のピストン輸送をする。少しでも帰宅の遅れを緩和しようと住民側が動き始めたのだった。車の自主運行車多摩交通問題実力突破委員会と書かれ横には白字で大きく小さくている陸運局は黙認していたのだろう。

信頼できる多摩ニュータウンタイムズより

最初の住宅供給多摩ニュータウン開発最初の一九七二年昭和四七年までの11箇年に投入された住宅宅四011戸、公団分譲住宅一二三0戸であった。いずれも三九平方メートルから五11平方メートルの小規模住宅で、エレベーターなしの五階建てが標準だった。
それでも2DK3DKの団地住まいはモダンで、二〇代後半から三0代前半の世帯を中心に不便を物ともせずに転入した。当時の公営住宅も公団公社賃貸住宅も分譲マンションも110代三0代のファミリー向けの住まいとして普及し始めていた。
今と比較すると結婚年齢も子育て期も五年以上早かったから、住宅ニーズも若くして始まった。ちなみに、公団の分譲価格四八平方メートル三九0万円、1平方メートル単価八·0万円は今では考えられない価格である

しかし、四八平方メートルは四人家族を主とする世帯には余りにも狭い。多くの世帯はまもなく始まるオイルショックをきっかけに住宅双六へと始動しはじめるのである。

折か日本の住宅はウサギ小屋量の供給ら国連人間居住会議からの発言もあって、から質の供給へと日本の住宅政策を大きく方向転換させる時期とも重なった。
だからそれ多摩ニュータウンに供給される住宅の面積も六五平方メートルに、以降、そして九五平方メートルへと急速に増え、同時に多摩ニュータウンのマンション価格は五年後の昭和五一年には二三·八万円/平米、一0年後には三五.二万円¥平米をつけた。その結果、一戸の総額も一五00万から三三00万と跳ね上がっていった。
当時のサラリーマンの収入もインフレで急速に上昇していたので、中古住宅を高く売ってさらに広い住宅を購入して行くという住宅双六が住宅取得の常套手段として受け止められていた。すでにお気づきの方もあろうかと思うが、多摩ニュータウン開発でも他の公的なニュ初期に投入する住宅は賃貸住宅を中心に整備する。
タウン開発でも、とりわけ公営住宅は多くなり、都営住宅多摩ニュータウンの場合も初期投入の住宅全体の三七パーセントが都営住宅になっている。

それに引き替え分譲マンションは一九パーセントという低水不便を承知で分譲マンションを買う世帯のニーズを少なく見て、準で、多少の不便は承知でも入居せざるを得なぃ入居者を対象とした公的賃貸住宅が供給の中心になった。その場合、希少価値の分譲マンションは高嶺の花で、当時の多摩ニュータウンでは、あ

こがれの持ち家だったに違いない。多くの賃貸世帯は、将来は中古住宅でも購入して持ち家世帯の仲間に入りたいと考えていたはずで、あわよくば、さらに住み替えで最後の到達当時、点は戸建て住宅の取得を夢見た時代である。マンションは終の棲家としては不十分と思われていて、住宅双六の上がりは戸建て住宅に決まっていた。

それを受け止めるように公社や公団は最寄り駅から少し離れた丘陵部に戸建て住宅団地を造成した。これで、公所得階層に応じた住宅政策のモデル配置が完成した。営住宅から戸建て持ち家まで、居住者もそれを当然として、右肩上がりの日本経済が本物であることを疑いもしなかったし、住宅双六はある種の錬金術として市民の意識に根付いていった。
それを証拠に多摩昭和四六年に供給された諏訪二丁目住宅の入居者の八割がニュータウン最初の分譲団地、転居している事実がある。
相続税の還付請求

定期預金の書き換えも贈与を受けた人が行う

親の土地の名義はとっくの昔に死んだ祖父のまま!
元々、住戸面積が四八平方メートルという狭さが原因で移転が誘発されたと思われるが、現状の居住実体を見ると単身世帯は11割以下で三人以上のファミリー世帯が五割以上と、必ずしも狭さが家族数を決定するものではないようだ。そこにその流れがバブルは狂乱物価で上昇した資産価値を生かした住宅双六が確実に存在した。景気後、一挙に崩壊すると誰が予測できたろう。従って、当時の住まいの価値観は、住み続けることが大切だという持続可能な社会を目指す現代の風潮とは価値観を一八〇度異にする状況だったに違いない。
その後の住戸面積が100平方メートルに近づいた昭和五六年頃の分譲団地、豊ヶ丘団地の入居者の住み替えは少ない。すでに建物の価格帯も上昇しており売却による利益は得られない状況にあった。その後のバブル景気にも広さという点では十分だったし、マンション管理も自主管理などでコミュニティもしっかりしていて、住宅双六は必要なかった。ただ、高齢化の波はひたひたと押し寄せており居住者は加齢している。

この団地の特徴は住宅規模は十分だが階段型住棟で、住み続けていくにはバリアフリーの対策が必要であり初期の団地とは違う、高齢化という現実的な問題が待っている。

求められる住まいの規模一九七一年、最初の分譲マンションが四八平方メートル、賃貸マンションが五一平方賃貸の方が111平方メートル広いという状況があった。
一般通念からするとメートルと、分譲の住戸規模が賃貸を上回るのが常識であるのだが、この時は逆転していた。
原因は当時の分譲マンションに対する住宅金融公庫融資の面積基準枠に限界があったことで、住戸面積を広くしたいとする公団賃貸住宅の方向と逆転現象を起こしていた。それほどマンションが持ち家住宅として一般的ではなく、抵当権を設定する不動産として金融機関には信用がなかったということに尽きる。

また住宅金融公庫のマンション融資そのものも一九七〇年、多摩ニュータウン第一次供給の前年度に実験的に始まったばかりで、マンション融資も手探りだったと言える。とりわけニュータウンとはいえ、開発途中の山間部の土地に落下傘で降りるかのような陸の孤島の住宅への融資だから、土地本位制の中で、マンションの資産価値の評価も難しかったに違いない。とはいえ、余程、住宅に困窮していなければ入居しないだろうと言う計画者側の思惑もあったのだろう。安価な小規模住宅が大量に供給され、すべてが売却された

その後、1年で狂乱物価のオイルショックがやってくる。
マンション価格も急上昇する一九七二年と一九七三年は第三次マンションブーと共に新規供給の住戸面積も拡大する。
ム、一九七七年から一九七九年は第四次マンションブームと呼ばれるが、オイルショック以降の多摩ニュータウンの位置づけは、一九七六年、他の例に漏れず公団住宅は「高.と評され、都心部のマンション供給が増え、遠·狭高くて遠くて狭い」その時期、都心回帰が始まっていた。
やがて多摩ニュータウンでも住宅面積は八〇平方メートルを上回り、とよがおかに分譲されたマンションは南面三室、当時、多摩市豊ヶ丘100平方メトルにもなる規模で供給され、ゆたかがおかと呼ばれるほど特別な面積の住宅が供給さそしてバブルれた。
さらに一九七九年以降は小規模分譲マンションの供給はなくなった。
信頼できる経済期には住戸面積平均が一四四平方メ-トレにもなる三世代同居型の団地も供給されファミリー型分譲マンションの最大面積に到達するバブル経済期の住宅供給戸建て住宅が住宅双六の上がりだと信じていた日本人には広いマンションは売れず、民間のマンションは何れも小規模だった。だから居住水準の向上を目指す国は、公団分譲などの公的マンション供給を通して広めのファミリー中心の住宅を供給してきた経緯がある。民間が都心部で比較的コンパクトなマンションや投資型のワンルームマンションを大量供給するのに対して、公的に整備する住宅はファミリーを中心にするために住戸面積を拡大していった歴史がある。だから多摩ニュータウンの分譲マンションにはコンパクトな住宅は初期の供給以外は存在しない。

一度、方向を定められれば、わき目もふらずに一心に目標の住戸を供給するのが我が国の習わし。最低でも七五平方メートルは確保すると国が宣言すれば、何が何でも最低限を守っていくので、結局、単身者は住めない団地群が生まれる。だから高齢の単身者は古い狭い住宅に住むしかないと言う選択になって、初期の住宅に集中することになった。日本の住宅政策はそれほど偏った住宅供給をしてきたことになる。

しかも殆どが中層住棟のエレベーターのない住宅だから、高齢化に対しては無子供が巣立って片方が死ぬ防備だ。人になる。と必然的に一中途半端な住戸面積では子供との同居も難しい。そんな問題が顕在化し始めたのもバブル景気の最中だった。高齢化が問われ始めたのもバブル景気と同じ時期になる。一九八六年昭和六一年、国の高齢者住宅事業としてシルバーハウジングが始住宅政策に高齢者への対策が取り上げられた最初だが、まった。
家族同その後の議論はか高齢者集合なのか議論が分かれた時代。その結果としてのマンションにも近居居隣居の可能性を作れと生まれたのが、三世代同居住宅の供給。平均住戸面積一四四平方玄関を二つ用意して内部で繋がる仕組みでエレベーターが用意されバリアフメートル、リーが謳われた。

そして多摩ニュータウンには新規団地の供給の中でまとまった単位で供給された一九八八年昭和六三年八月入居のサバービア多摩21は四九戸という小規模な団地であるが、一六四.九九平方メートルという大規模な住戸が供住戸面積は一一三.九一七八九0万、給された。
価格は五七七一平方メートル当たり四六.七万円という価格帯は当初の住宅価格としては高額であり、都心の親の住まいを整理して子供と同居するとやがてバブル景気のピーク時には多摩いう住み替え需要に焦点を当てた供給でもあった。ニュータウン内でも一平方メートル当たり六0万円が常識となり、やがて崩壊に進むことバブル景気だったことは、になる。はじけてから解るもの。
高額で購入した二世帯同居の住戸も今では一平方メートル当たり三〇万を割っており、八千万円近くで購入したものが五千万円を下回る価格になった。それでも、ピーク時に購入した住宅よりは損失は少ない広すぎる住戸は維持管理費も馬鹿にならず、ものの、月々の管理費と修繕積立金の合計は

高齢者世帯の住まいとしては負担が大き過ぎる。
四万円となり、すでに110年近く経過し居住者も住み続けることの重さを感じているはずである。た団地である。

アパートを建てた場合

コールドスポット

多摩ニュータウンに供給された住宅の規模は多様ではあるが、同一団地で同様な住宅が単身高齢者や新婚夫婦、集中して供給されているため、子育て世帯もいるというコミュニティミックスを実現できないでいる。その時々の住宅政策がモデル的に団地建設に適応されてきたことがコミュニティミックスの実現を妨げていると言ってもいい。こうした住宅ストックの中では、ライフステージに対応した望ましい住まいを求めるためには他の地区に住み替えていくしかなく、育ててきたコミュニティを失う結果となる。孤高の人は別にして、人間は共に暮らす仲間がいてこそ楽しくも有意義にも生きられるもの。特に老後の住まいは地域に密着するのが常。
できれば地域で終の棲家を見つけたいと考えるのは万人の共通する価値観であろう。そんな住まいが多摩ニュータウンにはない見方を変えると、家族の成長変化や経済力の違いによって住み替えをする日本の住宅制度に最も適応できているのが多摩ニュータウンであるのかもしれない。

ニュータウン内で区画整理地区の民間のワンルームから新住宅市街地開発地区新住地区の公共賃貸住宅そして新旧の分譲マンションや戸建て住宅などの全てが用意されていて選択できるという環境は大規模ニュータウンの特徴であろう。

経済力が不足すれば公営住宅があり、高齢化すれば高齢者向け優良賃貸住宅が用意されている。余裕のある世帯には高級な戸建て住宅団地も整備されていて、ステータスのある生活ができる。ある意味では至れり尽くせりのニュータウン、それが多摩ニュータウンであるのかもしれない。ただ、多様な住まいはあったとしても、人々は成長変化するもので、その度にヤドカリのように移住するのではかなわない。
住み替えるとしても同じコミュニティの中で住み替えることができれば近所づきあいも守れるが、所得や家族の成長や縮小などの変化によってコミュニティも一新させなければならないと言う住まい方は今後の高齢社会には似合わない。今後はコミュニティを離れずに住み続けられる住まいのあり方が求められている。その為の施策が望まれている。
多摩ニュータウンの住宅供給多摩ニュータウンの住宅供給は時代の流れに左右されながら大きく揺れてきた。
昭和四住宅不足の時代に街開きがあり、七年のオイルショックまでの大量の小規模住宅を供給し、住宅の質の時代続くでは急速に住戸面積の目標を拡大する国の施策に対する追随を団地単位に展開して、平均面積一四四平方メートルという偏った住宅団地を世に生み出してきた。

とりわけ公団を中心とした住宅開発は、国の住宅政策に従順に取り組んで極めて特異な市街地を生んできた。日本の住宅政策は階段状に昇っていく段階的施策といえる。五年ごとに住宅建設五箇年計画を策定して居住水準や環境水準を上向きに定め誘導する。それが公的住宅供給組織である都市公団や公社の建設基準になり、多摩ニュータウンの住宅供給の基本的基準ともなった。

これらの帳簿価額が相続時代の要請で、三年からの第八期住宅建設五箇年計画を最後にこの計画も平成一新たな住宅政策へと衣替えしたが、戦後の住宅政策の根幹を成す計画として、公営住宅公団公社の賃貸住宅、公的な分譲住宅、金融公庫融資住宅など旧建設省の関連する住宅に

全てに適応された基準であるは、誘導基準が優先する余り、従って、民間住宅の実態と、かけ離れた基準で整備するため低所得階層を救済する公営住宅が一般の民間賃貸住宅よりも高級な住宅になるケースも各つまり民間がついていけな所で現れ、ある種の逆差別的な捉え方もされることもあった。

いほど国の基準は高く位置づけられていて、結果的には現実から乖離した居住水準を求め言い換えると、ていたということにもなる。

日本の住宅環境を向上させるために高尚な目標を持っていたともいえるが、振り返って多摩ニュータウンを見ると、こうした高邁な理想を持った計画で造られた住宅が殆どを占めていることであり、とてもとても他では見られない優良な住宅が集積している区域であると言い換えることもできる建物のデザインや団多摩ニュータウンの住宅供給は面積も質も次第に向上していった。

地の配置計画など、環境デザインについても周到な計画理念や理想的な環境への提案が加えられ、都市計画、建築計画の世界では格好の実地研修場として歴史的にも先進事例としても見学の場として使われたり、放送業界からはテレビドラマやコマーシャルの舞台となり、クリエイティブな新都市としてデビューしていくことになる。とりわけバブル経済に突入する頃からはデザインも際だって良くなり、各種の景観賞に取り上げられるなど華々しいデビューを飾った。このように多摩ニュータウンの住宅は日本の中でも優良な住バブル期に建設した団地群で大規模の瑕疵が発生して、宅が揃っているのだが、前代未聞の建替にまで補償が進展した話題は新しい。
バブル経済期に入り、デザインも奇抜に個性的になって行くに従って住宅に掛けるコスそしてバブル経済のトも増加する。当然のように販売価格も賃貸価格も上昇していった。崩壊がやってきた。分譲目的として建設していた公団マンションも販売できず、やがて賃貸住宅として活用することが決まったし、市場価格暴落で売れ残っていた公社住宅もバブル崩壊以降10年を経て、元値の半分以下で処分した。
バブル経済崩壊は多摩ニュータウンから公的な分譲住宅供給を撤退させた。その後の分譲住宅供給は民間に移行した。
多摩ニュータウン開発を担っていた東京都も公団も用地を売却する手法として大規模な敷地にコンペを実施して販売を促進した。いずれも容積率を最大大規模な土地でのコンペ案は、限に使った計画で、住戸密度を限定しての計画案は、戸当たり面積が八〇平方メートル以Eの広めの住宅供給が続いた。

多摩ブルー賞