これらの帳簿価額が相続

預貯金等の名義変更贈与

住宅を造っても住む人がいなければ街は成立しないし、交通事情などが整っていない地区に転入する努力たるや想像を絶するものがある。とりわけ、多摩ニュータウンの最初の入居者は、開発側の経験も浅いので殆どマニュアルのないことの連続だったろう。いわば開拓者の精神で掛からなければ、到底多摩ニュータウンに住み続けることは出来なかったと思われるほど不便を強要した。だから、当初に入居した人々からの多摩ニュータウンへの思いには熱いものがある。時代はそれほど住宅不足が深刻だったという裏返しの事情があった。
当時の様子は多摩ニュータウンタイムズ社主、横倉舜111氏の報告に詳しいが一九七四年昭和四九年六月小田急多摩線が永山駅まで開通、同10月京王相模線が多摩センターまで開通するまでの間、入居した人々の苦労がどの様な試練の中で住み続けたのか、その状況が詳しく語られている。
横倉氏は多摩ニュータウンの土地取得に当初から係わり、多摩ニュータウン開発の生き字引として、われわれの多摩ニュータウン情報の原点でもある。
多摩ニュータウンタイムズが語るニュータウン初期の光景を参考までに抜粋する(一四)

-多摩ニュータウン妻子が待つマイホームに住民がピストン輸送永山地区に入居第一陣を迎えて一年が経った昭和四七年三月頃、諏訪、京王相模原線や小田急多摩線の鉄道工事は始まっていたものの住民の足の問題が解決したわけではなかった。

当時ニュータウンは、京王線聖蹟桜ヶ丘駅と小田急線鶴川駅との間を京王バス、神奈川中央バスの11社のバスで繋がれていた。朝夕のラッシュ時には途中無停車で急行してようやく間に合うというのが現状である。雪の日や雨の日に積み残された乗客の行列は気の毒であった。諏訪、永山地区には当時五千六百戸が入居しており、この三月には愛宕地区の入居も開始される。

ところが勤めから帰り桜ヶ丘に着くのが10時半過ぎると終バスはない。タクシもあるがバス料金の10倍以上を払うことになる。しかもタクシーに乗るためには長時間並んで待たなければならない。

桜ヶ丘駅のホームに電車が着くたびにホームからの階段を先を争い駆け降りてくるその足音と一人でも追い越して先に出ようとする気迫ある行動は異常ともいえる。そ新しいマイホームに住んで日が浅い、してタクシーを待つ列に加わるのである。妻や小さい子供が待つ家に一刻も早く帰りたいというのは人情である。折角桜ヶ丘駅に着いても、ここでまた三〇分、一時間待たなければならない、こんな日々が続くと、何とかならないものかと考えるようになる。だが、この新しい街はまだこれに応えられるようにはなっていない。
夜になると文字通り陸の孤島化するのが世界に誇る多摩ニュータウンの現状である京王新宿発の特急は最終が午後11時で、聖蹟桜ヶ丘駅着は同11時11五分だが同駅の最終バスには間に合わない。せっかく特急に乗ってもニュータウン行きの足はタクシー以外にはない。
夜10時半以後に聖蹟桜ヶ丘駅に下車して、折返し帰ってくる駅前のタクシーを待つ人たちで毎晩長蛇の列が続く多摩ニュータウンの入居募集案内などのうたい文句は新宿から二五分、職住近などであった。そこでこの交通問題を何とかしようと立ち上がったのが、「多摩交通問題実力突破委と称する自主運行だった。
バスのなくなった午後10時半以後終電まで、員会」京王桜ヶ丘駅とニュータウン間の約六キロを九人乗りのワゴン車で五八回のピストン輸送をする。少しでも帰宅の遅れを緩和しようと住民側が動き始めたのだった。車の自主運行車多摩交通問題実力突破委員会と書かれ横には白字で大きく小さくている陸運局は黙認していたのだろう。

信頼できる多摩ニュータウンタイムズより

最初の住宅供給多摩ニュータウン開発最初の一九七二年昭和四七年までの11箇年に投入された住宅宅四011戸、公団分譲住宅一二三0戸であった。いずれも三九平方メートルから五11平方メートルの小規模住宅で、エレベーターなしの五階建てが標準だった。
それでも2DK3DKの団地住まいはモダンで、二〇代後半から三0代前半の世帯を中心に不便を物ともせずに転入した。当時の公営住宅も公団公社賃貸住宅も分譲マンションも110代三0代のファミリー向けの住まいとして普及し始めていた。
今と比較すると結婚年齢も子育て期も五年以上早かったから、住宅ニーズも若くして始まった。ちなみに、公団の分譲価格四八平方メートル三九0万円、1平方メートル単価八·0万円は今では考えられない価格である

しかし、四八平方メートルは四人家族を主とする世帯には余りにも狭い。多くの世帯はまもなく始まるオイルショックをきっかけに住宅双六へと始動しはじめるのである。

折か日本の住宅はウサギ小屋量の供給ら国連人間居住会議からの発言もあって、から質の供給へと日本の住宅政策を大きく方向転換させる時期とも重なった。
だからそれ多摩ニュータウンに供給される住宅の面積も六五平方メートルに、以降、そして九五平方メートルへと急速に増え、同時に多摩ニュータウンのマンション価格は五年後の昭和五一年には二三·八万円/平米、一0年後には三五.二万円¥平米をつけた。その結果、一戸の総額も一五00万から三三00万と跳ね上がっていった。
当時のサラリーマンの収入もインフレで急速に上昇していたので、中古住宅を高く売ってさらに広い住宅を購入して行くという住宅双六が住宅取得の常套手段として受け止められていた。すでにお気づきの方もあろうかと思うが、多摩ニュータウン開発でも他の公的なニュ初期に投入する住宅は賃貸住宅を中心に整備する。
タウン開発でも、とりわけ公営住宅は多くなり、都営住宅多摩ニュータウンの場合も初期投入の住宅全体の三七パーセントが都営住宅になっている。

それに引き替え分譲マンションは一九パーセントという低水不便を承知で分譲マンションを買う世帯のニーズを少なく見て、準で、多少の不便は承知でも入居せざるを得なぃ入居者を対象とした公的賃貸住宅が供給の中心になった。その場合、希少価値の分譲マンションは高嶺の花で、当時の多摩ニュータウンでは、あ

こがれの持ち家だったに違いない。多くの賃貸世帯は、将来は中古住宅でも購入して持ち家世帯の仲間に入りたいと考えていたはずで、あわよくば、さらに住み替えで最後の到達当時、点は戸建て住宅の取得を夢見た時代である。マンションは終の棲家としては不十分と思われていて、住宅双六の上がりは戸建て住宅に決まっていた。

それを受け止めるように公社や公団は最寄り駅から少し離れた丘陵部に戸建て住宅団地を造成した。これで、公所得階層に応じた住宅政策のモデル配置が完成した。営住宅から戸建て持ち家まで、居住者もそれを当然として、右肩上がりの日本経済が本物であることを疑いもしなかったし、住宅双六はある種の錬金術として市民の意識に根付いていった。
それを証拠に多摩昭和四六年に供給された諏訪二丁目住宅の入居者の八割がニュータウン最初の分譲団地、転居している事実がある。
相続税の還付請求

定期預金の書き換えも贈与を受けた人が行う

親の土地の名義はとっくの昔に死んだ祖父のまま!
元々、住戸面積が四八平方メートルという狭さが原因で移転が誘発されたと思われるが、現状の居住実体を見ると単身世帯は11割以下で三人以上のファミリー世帯が五割以上と、必ずしも狭さが家族数を決定するものではないようだ。そこにその流れがバブルは狂乱物価で上昇した資産価値を生かした住宅双六が確実に存在した。景気後、一挙に崩壊すると誰が予測できたろう。従って、当時の住まいの価値観は、住み続けることが大切だという持続可能な社会を目指す現代の風潮とは価値観を一八〇度異にする状況だったに違いない。
その後の住戸面積が100平方メートルに近づいた昭和五六年頃の分譲団地、豊ヶ丘団地の入居者の住み替えは少ない。すでに建物の価格帯も上昇しており売却による利益は得られない状況にあった。その後のバブル景気にも広さという点では十分だったし、マンション管理も自主管理などでコミュニティもしっかりしていて、住宅双六は必要なかった。ただ、高齢化の波はひたひたと押し寄せており居住者は加齢している。

この団地の特徴は住宅規模は十分だが階段型住棟で、住み続けていくにはバリアフリーの対策が必要であり初期の団地とは違う、高齢化という現実的な問題が待っている。

求められる住まいの規模一九七一年、最初の分譲マンションが四八平方メートル、賃貸マンションが五一平方賃貸の方が111平方メートル広いという状況があった。
一般通念からするとメートルと、分譲の住戸規模が賃貸を上回るのが常識であるのだが、この時は逆転していた。
原因は当時の分譲マンションに対する住宅金融公庫融資の面積基準枠に限界があったことで、住戸面積を広くしたいとする公団賃貸住宅の方向と逆転現象を起こしていた。それほどマンションが持ち家住宅として一般的ではなく、抵当権を設定する不動産として金融機関には信用がなかったということに尽きる。

また住宅金融公庫のマンション融資そのものも一九七〇年、多摩ニュータウン第一次供給の前年度に実験的に始まったばかりで、マンション融資も手探りだったと言える。とりわけニュータウンとはいえ、開発途中の山間部の土地に落下傘で降りるかのような陸の孤島の住宅への融資だから、土地本位制の中で、マンションの資産価値の評価も難しかったに違いない。とはいえ、余程、住宅に困窮していなければ入居しないだろうと言う計画者側の思惑もあったのだろう。安価な小規模住宅が大量に供給され、すべてが売却された

その後、1年で狂乱物価のオイルショックがやってくる。
マンション価格も急上昇する一九七二年と一九七三年は第三次マンションブーと共に新規供給の住戸面積も拡大する。
ム、一九七七年から一九七九年は第四次マンションブームと呼ばれるが、オイルショック以降の多摩ニュータウンの位置づけは、一九七六年、他の例に漏れず公団住宅は「高.と評され、都心部のマンション供給が増え、遠·狭高くて遠くて狭い」その時期、都心回帰が始まっていた。
やがて多摩ニュータウンでも住宅面積は八〇平方メートルを上回り、とよがおかに分譲されたマンションは南面三室、当時、多摩市豊ヶ丘100平方メトルにもなる規模で供給され、ゆたかがおかと呼ばれるほど特別な面積の住宅が供給さそしてバブルれた。
さらに一九七九年以降は小規模分譲マンションの供給はなくなった。
信頼できる経済期には住戸面積平均が一四四平方メ-トレにもなる三世代同居型の団地も供給されファミリー型分譲マンションの最大面積に到達するバブル経済期の住宅供給戸建て住宅が住宅双六の上がりだと信じていた日本人には広いマンションは売れず、民間のマンションは何れも小規模だった。だから居住水準の向上を目指す国は、公団分譲などの公的マンション供給を通して広めのファミリー中心の住宅を供給してきた経緯がある。民間が都心部で比較的コンパクトなマンションや投資型のワンルームマンションを大量供給するのに対して、公的に整備する住宅はファミリーを中心にするために住戸面積を拡大していった歴史がある。だから多摩ニュータウンの分譲マンションにはコンパクトな住宅は初期の供給以外は存在しない。

一度、方向を定められれば、わき目もふらずに一心に目標の住戸を供給するのが我が国の習わし。最低でも七五平方メートルは確保すると国が宣言すれば、何が何でも最低限を守っていくので、結局、単身者は住めない団地群が生まれる。だから高齢の単身者は古い狭い住宅に住むしかないと言う選択になって、初期の住宅に集中することになった。日本の住宅政策はそれほど偏った住宅供給をしてきたことになる。

しかも殆どが中層住棟のエレベーターのない住宅だから、高齢化に対しては無子供が巣立って片方が死ぬ防備だ。人になる。と必然的に一中途半端な住戸面積では子供との同居も難しい。そんな問題が顕在化し始めたのもバブル景気の最中だった。高齢化が問われ始めたのもバブル景気と同じ時期になる。一九八六年昭和六一年、国の高齢者住宅事業としてシルバーハウジングが始住宅政策に高齢者への対策が取り上げられた最初だが、まった。
家族同その後の議論はか高齢者集合なのか議論が分かれた時代。その結果としてのマンションにも近居居隣居の可能性を作れと生まれたのが、三世代同居住宅の供給。平均住戸面積一四四平方玄関を二つ用意して内部で繋がる仕組みでエレベーターが用意されバリアフメートル、リーが謳われた。

そして多摩ニュータウンには新規団地の供給の中でまとまった単位で供給された一九八八年昭和六三年八月入居のサバービア多摩21は四九戸という小規模な団地であるが、一六四.九九平方メートルという大規模な住戸が供住戸面積は一一三.九一七八九0万、給された。
価格は五七七一平方メートル当たり四六.七万円という価格帯は当初の住宅価格としては高額であり、都心の親の住まいを整理して子供と同居するとやがてバブル景気のピーク時には多摩いう住み替え需要に焦点を当てた供給でもあった。ニュータウン内でも一平方メートル当たり六0万円が常識となり、やがて崩壊に進むことバブル景気だったことは、になる。はじけてから解るもの。
高額で購入した二世帯同居の住戸も今では一平方メートル当たり三〇万を割っており、八千万円近くで購入したものが五千万円を下回る価格になった。それでも、ピーク時に購入した住宅よりは損失は少ない広すぎる住戸は維持管理費も馬鹿にならず、ものの、月々の管理費と修繕積立金の合計は

高齢者世帯の住まいとしては負担が大き過ぎる。
四万円となり、すでに110年近く経過し居住者も住み続けることの重さを感じているはずである。た団地である。

アパートを建てた場合

コールドスポット

多摩ニュータウンに供給された住宅の規模は多様ではあるが、同一団地で同様な住宅が単身高齢者や新婚夫婦、集中して供給されているため、子育て世帯もいるというコミュニティミックスを実現できないでいる。その時々の住宅政策がモデル的に団地建設に適応されてきたことがコミュニティミックスの実現を妨げていると言ってもいい。こうした住宅ストックの中では、ライフステージに対応した望ましい住まいを求めるためには他の地区に住み替えていくしかなく、育ててきたコミュニティを失う結果となる。孤高の人は別にして、人間は共に暮らす仲間がいてこそ楽しくも有意義にも生きられるもの。特に老後の住まいは地域に密着するのが常。
できれば地域で終の棲家を見つけたいと考えるのは万人の共通する価値観であろう。そんな住まいが多摩ニュータウンにはない見方を変えると、家族の成長変化や経済力の違いによって住み替えをする日本の住宅制度に最も適応できているのが多摩ニュータウンであるのかもしれない。

ニュータウン内で区画整理地区の民間のワンルームから新住宅市街地開発地区新住地区の公共賃貸住宅そして新旧の分譲マンションや戸建て住宅などの全てが用意されていて選択できるという環境は大規模ニュータウンの特徴であろう。

経済力が不足すれば公営住宅があり、高齢化すれば高齢者向け優良賃貸住宅が用意されている。余裕のある世帯には高級な戸建て住宅団地も整備されていて、ステータスのある生活ができる。ある意味では至れり尽くせりのニュータウン、それが多摩ニュータウンであるのかもしれない。ただ、多様な住まいはあったとしても、人々は成長変化するもので、その度にヤドカリのように移住するのではかなわない。
住み替えるとしても同じコミュニティの中で住み替えることができれば近所づきあいも守れるが、所得や家族の成長や縮小などの変化によってコミュニティも一新させなければならないと言う住まい方は今後の高齢社会には似合わない。今後はコミュニティを離れずに住み続けられる住まいのあり方が求められている。その為の施策が望まれている。
多摩ニュータウンの住宅供給多摩ニュータウンの住宅供給は時代の流れに左右されながら大きく揺れてきた。
昭和四住宅不足の時代に街開きがあり、七年のオイルショックまでの大量の小規模住宅を供給し、住宅の質の時代続くでは急速に住戸面積の目標を拡大する国の施策に対する追随を団地単位に展開して、平均面積一四四平方メートルという偏った住宅団地を世に生み出してきた。

とりわけ公団を中心とした住宅開発は、国の住宅政策に従順に取り組んで極めて特異な市街地を生んできた。日本の住宅政策は階段状に昇っていく段階的施策といえる。五年ごとに住宅建設五箇年計画を策定して居住水準や環境水準を上向きに定め誘導する。それが公的住宅供給組織である都市公団や公社の建設基準になり、多摩ニュータウンの住宅供給の基本的基準ともなった。

これらの帳簿価額が相続時代の要請で、三年からの第八期住宅建設五箇年計画を最後にこの計画も平成一新たな住宅政策へと衣替えしたが、戦後の住宅政策の根幹を成す計画として、公営住宅公団公社の賃貸住宅、公的な分譲住宅、金融公庫融資住宅など旧建設省の関連する住宅に

全てに適応された基準であるは、誘導基準が優先する余り、従って、民間住宅の実態と、かけ離れた基準で整備するため低所得階層を救済する公営住宅が一般の民間賃貸住宅よりも高級な住宅になるケースも各つまり民間がついていけな所で現れ、ある種の逆差別的な捉え方もされることもあった。

いほど国の基準は高く位置づけられていて、結果的には現実から乖離した居住水準を求め言い換えると、ていたということにもなる。

日本の住宅環境を向上させるために高尚な目標を持っていたともいえるが、振り返って多摩ニュータウンを見ると、こうした高邁な理想を持った計画で造られた住宅が殆どを占めていることであり、とてもとても他では見られない優良な住宅が集積している区域であると言い換えることもできる建物のデザインや団多摩ニュータウンの住宅供給は面積も質も次第に向上していった。

地の配置計画など、環境デザインについても周到な計画理念や理想的な環境への提案が加えられ、都市計画、建築計画の世界では格好の実地研修場として歴史的にも先進事例としても見学の場として使われたり、放送業界からはテレビドラマやコマーシャルの舞台となり、クリエイティブな新都市としてデビューしていくことになる。とりわけバブル経済に突入する頃からはデザインも際だって良くなり、各種の景観賞に取り上げられるなど華々しいデビューを飾った。このように多摩ニュータウンの住宅は日本の中でも優良な住バブル期に建設した団地群で大規模の瑕疵が発生して、宅が揃っているのだが、前代未聞の建替にまで補償が進展した話題は新しい。
バブル経済期に入り、デザインも奇抜に個性的になって行くに従って住宅に掛けるコスそしてバブル経済のトも増加する。当然のように販売価格も賃貸価格も上昇していった。崩壊がやってきた。分譲目的として建設していた公団マンションも販売できず、やがて賃貸住宅として活用することが決まったし、市場価格暴落で売れ残っていた公社住宅もバブル崩壊以降10年を経て、元値の半分以下で処分した。
バブル経済崩壊は多摩ニュータウンから公的な分譲住宅供給を撤退させた。その後の分譲住宅供給は民間に移行した。
多摩ニュータウン開発を担っていた東京都も公団も用地を売却する手法として大規模な敷地にコンペを実施して販売を促進した。いずれも容積率を最大大規模な土地でのコンペ案は、限に使った計画で、住戸密度を限定しての計画案は、戸当たり面積が八〇平方メートル以Eの広めの住宅供給が続いた。

多摩ブルー賞