預金と借金の両建て

倍率方式

町田市と八王子市の間には緑地帯があり、直接ふれあうこと

を避けている。八王子市と多摩市の間にはゴルフ場があり、やはり市街地の連続を制限しさらに稲城市と多摩市の間にも緑地や都市幹線が介在して、ている。多摩ニュータウン全体の市街地の連担を制限している現状がある。これらの地形的な隔たりが有りながら隣接した行政区域であることが、多摩ニュータウンの全体を掌握することが出来ず、一部の報道が全てであるとの誤解を生む原因になっているように思う。

とりわけ多摩市民にとっては都心への通勤方向である稲城市域の様子は通勤電車の車窓から目に触れることもあるが、都心から遠ざかる方向の八王子市域や町田市域のニュータウン区域については、もともと意識の外になっているだろうし多摩ニュタウンという全体の把握は難しい。
稲城市域も八王子市域も町田市域でも民間のマンション開発が急速に進む状況は、多摩市の嘗てのニュータウン区域とは別世界のような状況で、同じ多摩ニュータウン区域であるとは思えないだろう。このように同じ多摩ニュータウンでありながら、開発の時期や地形区分によって大きく市街地のあり方が異なる地域を総合的に理解する為には、そのエリア別の特徴を一望でき正確に把握する手だてが必要になる。

その為には多摩ニュータウン開発に対する記録を一覧できる博物館の存在が欠かせない。多摩ニュータウンには住都公団が率先して開発を推進してきた時代に、その開発の歴史を示す展示館が用意されていたが、新たな組織となった都市再生機構も開発から手を引いた中で東京都もその役割は担えず、多摩市の財団法人多摩市文化振興財団や多摩市図書館がその継承をわずかに行っているのみである。
開発の歴史を見ると多摩市や稲城市は都市公団が中心に開発を進め、八王子市や町田市は東京都が中核的に開発を行っており、こうした多摩ニュータウン開発の情報が散逸しないように、今後は多摩ニュータウンを一つとして四市が出資した展示拠点を持つべきだと思現在、多摩ニュータウン学会や多摩市図書館などが中心になって、多摩ニュータウンアーカイブと称して人的情報も含めてデータを集積しているが、こうした動きが形になり多摩ニュータウンの歴史を未来に残す事業として結実してもらいたいと望むものである

ニュータウンのこれからニュータウンの資産多摩ニュータウンには縄文の集落が分布していたことや、四〇年前の開発前には炭焼きをベースとした営みがあったことを、地域に居住している人にどこまで知られているのか興味のあるところであるが、大規模に開発された地域では伝統も文化もうち消されてしまう場合が多い。

新宿駅の駐車場
しかし、多摩ニュータウンの場合には開発する台地に広く縄文時代の集落が隠れていて、その発掘調査から開発が始まった経緯がある。調査は表土をはぎ取ることから始まったので、その後には松やけやきなどの植林がされ必然的に自然林は一掃され、た。初期のニュータウン開発地区には里山の風景を織りなしたクヌギやコナラの従って、植林による林が登場した。
雑木林は姿を消し、その後、宅地化しない部分について現状の植生を残した開発をとの考え方から、宅地化する部分と残す部分とが区別され、必然的に里山の風景が残され炭焼きの伝統も継承できる公園として住宅地に組み入れられていった。一方、住宅市街地の形態も、大規模団地ではなくコミュニティ単位を大切にした多様な住宅団地が形成されていった。
建物の形態もマッチ箱の住棟ではなく、傾斜屋根になり、フロアに段差があるメゾネットプランや低層高密度の住宅群が建設され始めた。中でも多金曜日の妻たちへ摩センター周辺にはTBSドラマに使われた111階建ての地中海風の住宅群がある。
昭和五七年に建設されたタウンハウスは、集合住宅の新たな形として多摩ニュータウンに登場していた低層長屋形式の集合住宅の代表的なものになった。

その他多摩ニュータウンでは、樹木のあるコモンを囲んで配置された低層タウンハウスで緑豊かな新しい住宅団地の提案や、駅との段差を解決するために急勾配を斜行エレベーターで結びつける住宅開発など、様々なまちづくりの提案が相次いでいった。当時の都市公団の担当者によると、時代は公団の計画者にとって飛ぶ鳥の勢いで、様々なユニークな提案が現実化した時代でもあったという。世界からはウサギ小屋と呼ばれていた日本の住宅のレベルを一挙に上げようという思いがあったに違いない。当時の技多摩ニュータウンは一大集合住宅展示場になった。
術者は海外に範を求め、今では戦後の集合住宅史を学ぶのに、当地を訪れる研究者も多く、海外からの視察も相次いでいる。それほど多様な住宅を供給したのだから、ある意味では住宅展示場のような計画性のない住宅配置となったのもやむを得ない。

マッチ箱の住宅団地の隣にフルーツポンチのような団地があったり、イタリア風のデザインを基調としている団地群に隣接して、プレハブ建築の安っぽい建物が建っていたりするものだから、アブストラクトなというより、支離滅裂な配置になっているところもあり一大住宅団地の展覧会場は必ずしも統一のとれた住宅地にはならなかった。

図は多摩ニュータウンの一部の地図を切り取ったものだが、配置された住棟の並び方で住宅団地の開発の歴史が見て取れる。住棟が並行に配置されている団地は初期の団地で囲み型の住棟は比較的新しくなる。

南北の隣棟間隔が広いものは初期の開発また、ここでは五階建てが最高の配置で、隣棟間隔の小さいものや、囲み型の配棟のものは11階建また、戸建て住宅も小さく整然と並んでいて、て三階建てなどの低層棟である。
申告期限後3年以内の分割見込書

規模の大きな住宅1持家

美しい街並みは地域の財産!!
街路によって囲まれた住宅団地のブロック規模の違いも一目瞭然で開発時期の違いを表している。建物の奥行きも居住環境の違いを表しており、薄く長いものは住戸面積も小さく、厚手の住棟は住戸規模も増える。こうした住宅市街地は、開発時期の違いはあるとしても多摩ニュータウンの住宅資産として使われており、それぞれに生活者がおり日々の暮らしを営んでいるし、代々受け継がれていく都市の財産でもある。
引き潮の時代にはこうした資産が有効に活用されるようになることが課題であり、折角の資産を利用されなくなれば、人々は町に背を向けていることになる。それこそ街はスラム化に向かう。だからこそ残された都市の資産を大切にして後世に引き継いで行くことが出来る資産として維持することが必要になる。
ニュータウンの知的財産

居住者が主体的にまちづくりやまち育てに係わるかどうかに掛ニュータウンの盛衰は、かっているようだ。今後の地域間競争の時代には必ず衰退するまちは生まれる。
そこを勝ち抜くためには、全国どこのまちでも美しい景観と豊かなコミュニティを基軸に取り組めば、市街地の活性化は前進する。

もちろん経済基盤は重要だが、必ずしも生産工場などの就労の場を確保するのみが経済ではなく、アメリカ合衆国のフロリダにあるようなリタイ地域のまちづくりアメントの資産を経済ベースにした街も存続することを念頭に置いて、に取り組むことが重要だ多摩ニュータウンもいずれは高齢化が避けられない時代が来るが、それまでの間に、より一層まちの景観に磨きを掛けて魅力的に美しく育てあげ、豊かな人々が集中し集積するコミュニティが形成されるよう仕向け、地域の元気を醸し出すような街になるよう努めなければ今後の地域間競争という戦いに勝てない。
捨て去られる都市は必ず発生するのだか人を引きつける魅力的な街にならなければ生き残れない。新住民が集まり、ら、基盤整備の整ったニュータウンにはその素養と未来がある。たとえ核都市の商店街が寂れたとしてもニュータウンは生き残る。

全国の商店街の多くは、商店主が跡取りを育てず、街に住まず、街を活性化させる努力をしなかったつけがモータリゼーション回ってきているのであって、商店街の衰退は必然的な結果だと思う。の流れの中で、自らも郊外のニュータウンに居を構え、子育てをしながら街に通勤してい街は人が住みついてこそにぎわいが生まれる。ことを反省すべきである。夜の七時や八時で閉まる商店街には客は寄りつかない。
今、スーパーマーケットはコンビニエンスストアに負けじと夜の1-1時まで店を開けている所もある。
ゆたかがおか中には二四時間営業を売りにしているスーパーも現れている時代である旧商店街のシャッター通りは滅びても仕方ない。そのかわり商店主も住んでいるニュータウソに商売の拠点を移すのも一つの選択。人のいるところにビジネスは成立するし商売の考え方を顧客本位に切り替えれば商いは成立する。とりわけインターネット販売や通販などのビジネスも成立する時代である。場所を選ばなくてもビジネスは出来るれは各地のニュータウンに同様に通じる真理であるように思う。時代は大量消費から少量多品種の個別消費時代に入っていく入り口にある。
ニュータウンにビジネス拠点が移動するとさらにニュータウンには雇用も生まれ定住化もし易くなる。都市基盤がしっかりしているので流通などへの対応も容易で、通信環境も整っている。こうしたニュータウン開発のメリットを生かした新規事業を組み立てれば効率の良いビジネスが展開できるはずであるそれに、ニュータウンには人材がいる。

大卒の専業主婦層が比較的集中するのがニュタウンの特徴だし、持ち家取得でローンを抱えるというハードルのある中堅勤労者達がいまた、その退職者達は専門的な知識と業務経験を持ったスペシャリストも多い。る。それほどの人材に恵まれたニュータウンである。地域の活性化には大きな知恵になり知的財産でもある。加えて高齢化も味方する。定年退職者が集まることで選挙などには力を発揮し利益誘導には欠かせない勢力となろう。これからは都市の選別の時代であり地域間競争の時代である。こうした時代に勝ち残れるニュータウンであるためには、人·物·金がバランス良く集積する必要がある。
これら

の条件を一手に引き受けられるのがニュータウンである。だから私はニュータウンに対する悲劇的な見方はしていない。全国で高齢化や過疎化が進むニュータウンと悪評されたとしても、ニュータウンには人·物·金の三拍子が整っていると考えている。
それを活かすも殺すもニュータウン居住者である生活圏と行政界の谷間で多摩ニュータウン区域の八王子市域の住民が多摩市への編入を望み、一時期、行政に進言したことがある。
対象区域を地形的に見ると、多摩市に編入されることが住民サービスを容易にすると誰が見ても思うのだが、その編入は許されなかった。

私は○×には相続させたくない

総資産価額

多摩ニュータウン開発が始まる前の山林であれば、丘陵地を斜めに区切る行政界も不自然ではないが、宅地開発後は戸建て住宅団地を斜めに分断する市境は困りものだ。本来、開発に伴い行政界も整理すべきであったのだが、現実は行政界をそのままに開発を終え分譲したものだから、つの団地の中に行政界が走り、ご丁寧に区分された宅地の真ん中にも斜めに走る境界があり、居住者としては困惑する。おまけに、自治組織としての町内会も分断されているのだから、隣同士が違う行政サービスを受けることになる。ゴミの出し方から回覧板まで、隣とは違う行政サービスが行わこれではまちの運営は難しい。
とりわけ八王子市役所へは、れる。バスを乗り換え1時間以上もかかる場所にあるのだから行政サービスを受けるには徒歩でも利用できる多摩市役所の方が良いと思うのは致し方ない地区である。図書館も警察署も文化施設も多摩市の施設を利用する方が便利なのにもかかわらず、編入は許されなかった。行政界はその時代に合わせた合併や政治的な背景で決まってきた歴史がある。
しかし戦国の時代のように統治する領地で勢力争いをする時代ではない。

時代は三世紀である。にも関わらず、同様な思想で行政界が取り巻く不合理な現実に矛盾を感じるのは私だけなのか。多摩ニュータウン開発によって生まれた住宅地に居住するものの権利や義務はどこにあるのか、ニュータウン開発の象徴的な出来事であったと思っている。一度、地域の仲間とその境界線を歩いてみた。道路が分断されている所では、ガードレールの種類も異なり、ペンキの塗り具合も違っていた。
敷地の中に境界線がある宅地は空き地になっていたし、同じ街区なのに市の名前が違っているという不思議な光景も確認した。その地を初めて訪ねる人はとまどうに違いない。多摩ニュータウンにはこうした陰の部分がまだまだあるのだが、大きく見ると都市の構開発の区域や時代構成が、七0年代、八○年代、九0年代、造は明確で、二000年代と段階的な整備が見られ、住宅地の構成も大振りで特徴が出やすい傾向がある。

従って時代に相応した栄枯盛衰も極めてブロック単位で明瞭に表面化していることから地域毎の問題点を浮き彫りにすることが可能だと考えている。まちづくりの問題をエリアを限定した問題してクローズアップすることでこのように、固有の問題として解決方法も見つけやすいので、全国のニュータウン問題の事例として扱そこで本書では多摩ニュータウンのまちづうにはもってこいの地域であると考えている。

くり問題を題材として、全国のニュータウン再生や活性化方策の参考として、あるいは地域のまちづくり·まち育て活動の事例として、役立つ参考書としていただければ、私とし

てこの上ない喜びである国立社会保障·人口問題研究所の報告では、二00六年には人口減少社会が始まり、二〇一五年からは世帯数も減少し始めると発表されている。

とりわけ地方においては人口減少も早く現れるが東京圏も二0110年からは下降段階に入るとされる。その時、全国のニュータウンのどこが生き残れるのか、未来を展望して活動していくことが大切である。

多摩ニュータウンから未来を占う千里ニュータウンの街開きからほぼ一〇年遅れた多摩ニュータウンでは、オイルショッその後の開発である他の市域とでは明確に状況が異ク前の開発地区のある多摩市域と、多摩市域では世帯分離や住み替えで人口減少が始まっているものの、なっている。
ゆたかがおか他の三市では新規住宅建設が続き、人口が増加している。そのことで多摩ニュータウン全体とし人口増加が続いている開発規模は千里ニュータウンの約11倍、ては現在も尚、日本最大の新住宅市街地であり、計画当初から時代の変化に右往左往させられながら、のらりくらりと段階的な開発が続いてきた。
こうしたこともあり、全体を通してみると少子高齢化の動きも平均化し緩和されていると見ることができ、総合的に見ると世代バランスもオイルショックまでに殆どの住宅整備が終わった千里取れているという結果になる。オイルショック以降に本格的なまちづくりが始まった多摩ニュータウンニュータウンと、との違いが街の様相を違えている。
千里ニュータウンが一三年間で人口のピークを迎えたのに対して、多摩ニュータウンでは三五年経っても人口が伸び続けている所に基本的な違いがある。
土地売却のスピードやタイミングがその違いを裏付けることになるが、千里ニュータウンの開発主体が大阪府企業局であったことと、多摩ニュータウンでは都市機構や東京都が開発主体であったことの違いがその運命を決定づけたという論評もある。結果として開発初期の多摩市のニュータウン人口に着目すると、街開き後110年で下降に向かっており、限定的ではあるが少子高齢化の問題や課題を噴出させている。
しかし多摩ニュータウン全体としては今も人口増加をしているのが実態であるこのように見てくると、全国に分布するニュータウンを一元的にくくるのは元々無理があることが解るはず。

多摩ニュータウンの場合は開発時期のずれや地理的な事情から必ずしも老朽住宅が全体に分散しているのではなく、一部に集中しているに過ぎないのである多摩ニュータウンの場合は開発初期の住宅が多摩市に集中しており、必然的に多摩市は急速な高齢化で財政負担が過剰に膨れあがるという財政危機に構えることになる。こうした状況から離脱するためには人口増加がめざましい稲城市との合併も望ましいのだが、現状ではこうした議論は机上には乗らないようだ。ニュータウン開発という共通の考え方で整備されたエリアであるので、本来、行政界を区分せず融合合併の方向は示せないものか。
自治体レベルではできないことならば、多摩ニュータウン市民が公共サービスの享受する中で、市民共通の利益になるものだとして市民生活環境を融合する術を考えてみたい。行政区は違っても市民生活は共通している。その中での棲み分けを行政単位でない形で構築できれば良いと考えている。

多摩ニュータウンを模式化してみると、やはり多摩市と稲城市の市域には多摩ニュータウンが占める割合が高い。
従って多摩市も稲城市も多摩ニュータウンを主役の一つとして置かなければ行政はままならない。また多摩ニュータウンに占める面積規模としては八王子市が多摩市と,,規模である。
市街化区域